【深掘り「鎌倉殿の13人」】北条義時が激怒!実衣の子・阿野時元は、本当に謀反を企んでいたのか
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、源実朝死後の権力闘争が激しくなり、ついに実衣の子・阿野時元が謀反を画策した。とはいえ、ドラマではいわゆる時元の「ナレ死」で終わってしまった。謀反は事実なのかについて、詳しく掘り下げてみよう。
ことの発端は、建保7年(1219)1月に3代将軍・源実朝が公暁に暗殺されたことだった。実朝には後継者たる男子がいなかったので、次期将軍を誰にするかで、幕府は揉めに揉めていた。後鳥羽上皇の子を将軍に迎える手もあったが、なかなかうまくいかなかった。
とはいえ、源家正統の血筋が完全に絶えたわけではなかった。源頼朝の弟の阿野全成は、謀反の嫌疑により建仁3年(1203)に殺害されたが、実衣の間に時元という一子をもうけていた。時元こそが、源家正統の血筋を保っていたのである。
全成が謀反の嫌疑で殺されたものの、時元は北条時政らの配慮もあって、連座して殺害されることはなかった。辛うじて命だけは助けられ、父が残した駿河国阿野荘で逼塞して生活していたのだ。この間の時元の動静は、ほとんどわからない。
『吾妻鏡』によると、建保7年(1219)2月11日に時元が駿河国で謀反を起こしたという。時元は大勢の軍勢を引連れ、城郭を構えており、朝廷から宣旨を賜って東国を支配しようとしたという。
2月19日、北条政子は金窪行親以下、御家人を駿河国に遣わし、時元を討とうとした。2月22日、幕府軍に敗北した時元は逃走し、その翌日に自害して果てたという。この件の合戦の経緯は、詳しくわからない。
これが事件の概要であるが、実衣が関与した様子はうかがえない。時元が将軍になるべく、朝廷から宣旨を賜って謀反を起こしたと記すのは、ほかに『六代勝事記』、『保暦間記』といった二次史料がある。
『吾妻鏡』は、鎌倉時代の中後期に北条氏が編纂に関わった史料なので、時元が謀反を本当に画策していたから討ったのか、疑わしいのも事実である。『六代勝事記』、『保暦間記』は、『吾妻鏡』の記事を参考にしたに過ぎないだろう。
そう考えるならば、実朝暗殺後の次期将軍問題が複雑なことになったこともあり、幕府は時元の存在が厄介になったので、謀反の汚名を着せた可能性がある。実衣の名前がないのは、すでに全成の死で影響力を失っていたからだろう。