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【深読み「鎌倉殿の13人」】藤原泰衡が源義経を討たざるをえなかった気の毒な理由

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
源義経は、平泉の衣川館で死んだ。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の第20回では、源義経が藤原泰衡の率いる軍勢によって討たれた。なぜ、泰衡は義経を討ったのか、その理由について詳しく掘り下げてみよう。

■藤原秀衡の遺言

 藤原泰衡は、秀衡の次男として誕生した。国衡は、異母兄である。泰衡が嫡男の座を射止めたのは、母の血筋が良かったからだった。母は、藤原忠隆の子・基成の娘だった。

 文治3年(1187)10月29日、秀衡が病没し、藤原氏の家督は泰衡が継いだ。秀衡は遺言を残しており、その内容とは、源義経を大将軍とすることだった。秀衡は源頼朝を恐れていたので、あえて義経を前面に打ち出し、対抗しようと考えたのだろう。

 『吾妻鏡』によると、死の迫った秀衡は、仲が悪かった泰衡・国衡兄弟の関係改善を願い、国衡に自分の妻を娶らせたという。国衡が秀衡の妻を娶ると、泰衡は形のうえでは子供になる。こうして、兄弟間の争いをなくそうとしたのである。

 秀衡は、泰衡・国衡兄弟と義経に起請文を書かせたと伝わっている。その内容とは、頼朝の攻撃に備えるべく、義経を主君として擁立し、結束を促すものだった。秀衡は、藤原氏の行く末を心配していたのである。 

■義経の追討

 秀衡の死は、頼朝にとって大きなチャンスとなった。それは、義経を討つことだけではなく、奥州藤原氏を攻め滅ぼす絶好の機会となったからである。

 文治5年(1189)2月、泰衡にある報告があった。それは、義経と忠衡(泰衡の子)が結託し、泰衡を討とうとしているという密告だった。また、一説によると、泰衡は弟の頼衡を討ったという。秀衡の死後、藤原氏の結束が崩壊していた可能性がある。

 一連の事件を知った義経は、危険が身に及ぶと考え、弁慶に書状を書かせた。書状の内容は、九州の原田氏らの豪族に参集を命じるものだった。配下の駿河次郎は、その書状を携えて九州を目指したが、途中で捕らえられたという。

 書状を見た頼朝は激怒し、ただちに義経を討とうと考えた。しかし、梶原景時が義経を戴く奥州勢と戦ったら、大変な戦になると忠言した。その代わり、泰衡を懐柔することを提案し、常陸を与えるよう伝えたところ、泰衡は義経の討伐を引き受けたという。

 とはいえ、ここまでの話は『義経記』などに書かれたもので、あまり信が置けない。実際のところ、秀衡死後の泰衡の立場は、大変苦しいものだった。

■泰衡が決意した理由

 同年2月、頼朝は泰衡が義経に与同しているのが明らかなので、奥州征伐を実施したい旨を朝廷に申し入れた。すでに、頼朝は義経追討の宣旨を得ていたが、泰衡の討伐すら辞さない覚悟を示したのである。

 同じ頃、泰衡は頼朝に書状を送り、義経の所在が判明次第、絡め取って鎌倉に送り届けることを約束した。しかし、その対応は、頼朝にとって非常に手ぬるいものだった。以後も頼朝は朝廷に奥州追討の宣旨を求め、実際に朝廷も検討するような状況になった。

 ここまで来ると、もはや泰衡にはまったく選択の余地がなかった。同年閏4月30日、泰衡は義経の居所である衣川館を襲撃し、義経を死に至らしめたのである。義経を討つことで、藤原氏を存続させようとしたのだ。

 泰衡はあの手この手で義経を守ろうとしたが、ついには頼朝の圧力に屈して、討ち取ったということになろう。「義経を大将にしたら勝てたかもしれない」と思うかもしれないが、少なくとも泰衡はそう思わなかった。「義経最強伝説」は見直されるべきだろう。

 なお、義経の最期については、改めて取り上げることにしたい。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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