藤田菜七子以来の女性騎手誕生。父親が半生と娘、そして現在の心境を語った
淀で育ちジョッキーに
2月9日、JRA競馬学校の卒業式が行われた。
藤田菜七子以来、5年ぶりのJRA女性騎手となる2人の名が次の日の新聞紙面を飾ったが、そのうちの1人、永島まなみは、彼女がまだ小さい頃から知った顔だった。いや、正確に言うと、生まれた時から知っていた。彼女の父・永島太郎と懇意にさせてもらっていたから、だ。だから彼女の競馬学校入学が決まった際、3人で食事をした。今回はその当時の話もまじえ、父に焦点をあてた記事を記していこう。
1974年1月、京都生まれで現在47歳の永島太郎。実家の近くが京都競馬場だった事もあり、中学卒業時、JRAの騎手試験を受験。一次を突破し、父・俊彦と共に上京。二次に臨んだ。しかし「入学したら食事制限があるだろうから」という父の言葉に流され、試験直前にたらふく腹を満たしたところ、体重オーバーで不合格になった。
「父がどうこうではなく、自覚の無さを反省しました」
結局、地方競馬の学校を受け直すとこちらは無事に合格。2年後の91年、園田でデビューし、初騎乗初勝利。順調に成績を伸ばし、2年目には早くもベスト10入りを果たすと、その後はリーディングを狙えるか?!という存在になった。2001年にはJRAでも騎乗すると、プライベートも順調で、3人の子宝に恵まれた。
「3人とも女の子でした。そのうち02年10月に生まれた次女がまなみでした」
永島自身の脂が乗る時期はまだ続いた。05年には彼から「JRAの美浦トレセンで調教に騎乗出来ないか?」と相談をされ、JRAに話を通すと許可がおりた。そこで萩原清調教師にも協力してもらい、美浦での騎乗が実現。園田のトップジョッキーは着実に経験値を増やしていった。
次女だけが馬に興味を持つ
幼い頃からそんな父の姿を見て影響を受けたのがまなみだった。太郎は言う。
「3姉妹の中で何故かまなみだけが馬に興味を持ちました。小学5年で乗馬を始めると、雨が降っても1日と休まず4年間、乗り続けました」
その間も父の挑戦は続いていた。JRAの騎手試験も受験した。しかし……。
「試験は7回受けたけど、手応えを掴めませんでした」
更に「3日間競馬なら毎回2日で4キロ落としていた」という減量もストレスになり、徐々に以前ほどは勝てなくなった。そんな流れもあり、調教師への転身を考え出した。
18年には、JRAの競馬学校を受験したまなみから合格の報が届いた。当時、お祝いの会食をした席で、太郎は言った。
「現在、僕は調教師の道を真剣に考え始めているので、まなみがデビューするまでの3年間、待つ事は出来ないと思います。だから『レースで一緒に乗れる日はない』と考えています」
同年8月には期間限定騎乗中の門別で地方競馬通算2000勝を達成した。しかし、その直後、落馬して大怪我を負った。その瞬間「骨と一緒に心も折れました」と語る永島は、本格的に調教師への転身を心に決めた。
翌19年には調教師試験に合格。最後の騎乗となった日にも見事に勝利して、自ら花道を飾った。
「それまでなかなか勝ち切れなかった馬が引退の日に頑張って勝ってくれました。ジョッキーに対する未練はなく引退出来ました」
それぞれの道を歩み出す
開業までの準備期間には栗東の武幸四郎厩舎で働かせてもらうなど、全国の関係施設を巡り、更に経験を積んだ。
こうして20年2月、西脇馬事公苑で厩舎を開業。当初は8頭でスタートしたが、現在は16頭を管理。4人のスタッフを雇っている。
「騎手時代に親交を持てた武豊さんにオーナーを紹介していただくなど、助けていただきました。また、スタッフにも恵まれて、開業後は成績面も含め、想定していた以上にうまく進められています」
現在は毎朝3時に起床、日に8~10頭の調教に自ら跨っている。休みは取れない日が続くが、北海道の牧場へ行く時など、厩舎を離れる際はスタッフがしっかり留守番をしてくれると言う。
「昨年の暮れにはまなみの模擬レースが中山でありました。自分は行けないモノと思っていたのですが、スタッフが皆『大丈夫ですから行ってください』と言ってくれたので、現場へ行けました」
卒業式にも駆けつけた。
「コロナ禍でもあり、ゆっくり話せませんでしたけど『おめでとう』『ありがとう』くらいの言葉はかわしました」
「模擬レースでもドキドキした」と言う太郎の表情は、調教師のモノではなく、完全に“父親”のそれだった。デビューとなれば、当然、今以上に気の休まらない日が続くだろう。
「怪我の辛さは自分もよく分かっているので、出来る事ならしてほしくないけど、JRAという華やかな舞台の免許をいただけた以上、頑張って1鞍でも多く乗り、勝ってほしいです」
“勝ってほしい”のはただ単に娘に目立ってほしいから、ではなかった。元騎手だからこそ分かる理由を永島は続けた。
「勝てば応援してくれる沢山の人達に少しでも恩返しが出来るし、勝つ感覚を知るとそのために色々な辛い想いを我慢出来るようになります」
だからこそ、勝ってほしいのだと続けた。
競馬学校時代の3年間は「まなみがスーパーのレジに並んでいる時とかに電話をかけてきて話した」と笑って言う。そんな時も「ただの1度も弱音や泣き言を言った事はなかった」娘がついに掴んだデビューの時。それを目前にした父は言う。
「ここまで来たら1ファンとして応援したいです!!」
戦う舞台も立場も違う父娘だが、近い将来、一緒に戦う日が来るかもしれない。いや、もしかしたら父の心の中では、既に一緒に戦っているのかもしれない。2人の今後を見守ろう。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)