あの日の事故を境に、人生が一転したホースマンを支える「現在の生き甲斐」とは?
競馬マニアから馬の世界に
「スローモーションのように地面が近付いて来るのが分かりました」
次の瞬間、頭から馬場に叩きつけられた。激しい衝撃を感じたが、記憶が飛ぶ事はなかった。そのままコースに横たわっていると、後続馬の蹄音が聞こえた。
「このままでは踏まれる!!」と思い、慌てて体を転がしてコースの外へ避けた。いや、避けるつもりでいた。しかし、意に反して身体が動かなかった。蹄音が近付いて来る。しかし、何も出来なかった。動かない身体なのに、身震いする思いがした。
1人の男の人生が、180度、変わった瞬間だった。
1982年9月17日生まれだから先日41歳になったばかりの坂田栄一。広島県で、3人兄弟の長男として育った。競馬とは無縁の家庭だったが、実家の近くには福山競馬場があり、ゲームをきっかけに競馬に興味を持った。
「それが中学生の頃でした。その後、乗馬を始めました」
場所柄、毎週競馬を見られる環境ではなかった。しかし、テレビのダイジェストは欠かさずチェック。周囲の同級生からは「競馬マニア」として知られる存在になった。
中学卒業後は福山競馬の厩舎で働いた。その後、2年遅れで高校に入学すると、馬術部に入部。高校を出た後はオーストラリアへ飛び、かの地の競馬学校に入った。
「海外競馬にも興味があっての行動でした。そこを卒業すると、帰国して、乗馬クラブの立ち上げから協力して、1年、働きました」
その間も競馬への興味が薄れる事はなく、高校の友人が働いていた育成牧場のキタジョファームで働き出した。
「それが2003年の終わりくらいでした。初めての競走馬だし、馴致もしたので、それまでとは全く違う怖さを感じました」
ついにトレセン入り
それでも辞めようという選択肢はなかった。もう一カ所の牧場を経て、08年には競馬学校に入学。翌09年からは美浦トレセンの伊藤圭三厩舎に持ち乗り厩務員として臨時採用された。
「入って間もない頃の調教で、スタンドにいる伊藤先生から『遅いぞ!!』と叱られた事がありました。伊藤先生は馬に関する事はこんな感じで厳しかったけど、反面、色々な馬に乗せてくれたし、最前線で馬を作るための“いろは”を教えていただけました」
11年の秋からは調教助手として、高柳瑞樹厩舎で働く事になった。
「高柳先生は感覚を大事にする先生という感じで、乗り手の意見もよく聞いてくださいました。それだけに責任感が強くなったし、また勉強になりました」
その頃、携わった馬にヴィットリオドーロという黒鹿毛の牡馬がいた。母のプリエミネンスが伊藤圭三厩舎にいた馬だった事もあり、思い入れは強くなった。少しずつ出世をして、準オープンまで進んだ。「何とかオープンを勝たせてあげたい」と思ったが、その願いはかなえられないまま同馬は引退。思いは他の馬に託される事になった。
忌まわしい事故に見舞われる
しかし、そんな希望がかなえられる前に、忌まわしい事故に見舞われた。
14年12月17日。この日の朝、坂田は3歳馬の追い切りに跨った。いつもと同じ朝。この直後に人生の転轍機がガチャリと音を立て、自らの進路を大きく変えるとは微塵も考えていなかった。追い切りはほぼ順調に消化。ゴールラインを通過した。
「ゴール後も伸ばす予定だったので、そうしようとした時に、ウッドチップに脚を取られたのか、馬がバランスを崩しました」
落とされるのが分かった。スローモーションのように近付いてきた地面に頭から落ちた。その瞬間から、身体が動かなくなった。
「後続馬の蹄音が近付いて来るのが分かった時は恐怖しかありませんでした。ただ、その馬に乗っていた伴(啓太騎手)君が上手に避けてくれたので、踏まれる事はありませんでした」
暫くすると、スタンドから高柳が駆けつけてくれた。「大丈夫か?」と聞かれたが「身体が動きません」と答えるのが精一杯だった。
救急車で診療所に運ばれた。しかし、そこでは対処し切れず、大きな病院へ搬送された。道路の凹凸で車が揺れるだけで、背中を中心に言い表せないほどの痛みに襲われた。激しい痛みは感じるものの、身体は相変わらず、動かなかった。当時の心境を次のように述懐する。
「『やっちゃったな……』と。ただ、それだけの感じでした」
病院に着くと、すぐにレントゲンやCTスキャンで検査。結果、背骨が3本も脱臼している事が分かった。
「その間も少し動くだけで激痛が走りました。診断してくれた医師は、変な希望を持たせるより真実を客観的に話した方が良いと判断したのか『手はおそらく動くようになるけど、足は厳しいと思います』と、はっきり言われました」
とてつもなく大きなショックに見舞われたかと思いきや、意外にも冷静だった。
「勿論ショックでしたけど、まずは生きているし、馬も無事だったと聞いたので『仕方ないかな……』と割り切る事が出来ました」
ただ、胸が締め付けられる思いがなかったわけではない。
「2人の子供は幼稚園児だったので、理解出来ているような、出来ていないような感じでしたけど、妻や両親はショックを受けていました。その姿を見た時は、申し訳ない事をしてしまったと感じました」
新たに見つけた生き甲斐
即日、手術が施され、しばらく集中治療室で過ごす事になった。
その後、上半身は動くようになったが、下半身は最初の診断通り、感覚を取り戻せない日々が続いた。あの日を境に人生の中から“歩く”という当たり前だと思っていた行為が出来なくなり、代わりに、車椅子の無い生活が考えられなくなった。当然、現場への復帰も出来ない。当時の苦しい心境を語る。
「普通に歩けない自分に対し、絶望感に襲われる事が度々ありました」
定期的に襲ってくるそういった波により、メンタル面で沈む日が現在でもあると言う。
ただ、そのまま沈み切らないのには、明確な理由があった。
「高柳厩舎だけでなく、伊藤厩舎時代の仲間も皆、お見舞いに来てくれて、励ましてもらいました。1年半の休業扱いが終わった後も、高柳先生が良くしてくださり、厩舎での事務作業要員として雇っていただいています」
現在は装蹄師の事務作業もやらせてもらっていると言い、更に続ける。
「高柳先生の紹介により、ホースセラピーの馬に乗せてもらった事もありました。自分で乗っていた時とは違う寂しさはあったけど、久しぶりの馬の背中に、懐かしさを感じる事は出来ました」
そんな中、知人の馬主に、馬主になる事を勧められた。そこで地方競馬で免許申請をすると、許可が下りた。
「それからは馬主として、セリにも出来る限り参加をして、自ら馬を選び、購入するようにしました」
丁度1年前の22年9月20日、北海道セプテンバーセールで「歩きの軽い」(坂田)当時1歳の牡馬を手に入れた。そして、その馬をデュアルロンドと名付けると、2歳の早い段階から活躍。先日9月3日にはJRAのすずらん賞に駒を進めるまでになった。
「結果は10着(14頭立て)に負けてしまったけど、自分としてはこのような馬主としての活動が現在の生き甲斐となっています」
当日は札幌競馬場まで駆けつけたという坂田は言う。
「同じように落馬で大怪我を負った藤井勘一郎騎手が、先日、単身、車椅子で韓国競馬を観戦しに行ったそうですが、自分も出来る限り外へ出るように心掛けています」
車椅子なので周囲に迷惑をかけないか?と不安になる事もあるそうだが、同時に「車椅子で何が出来るか、何が不便かを健常者の皆さんにも考えてもらいたくて」自ら経験を積むようにしているのだという。
怪我をして今年が10年目。人生の4分の1は怪我と付き合って生きている事になった。坂田は言う。
「馬主としての活動は、分かってはいた事ですが、少なからずお金もかかります。でも、それを全く拒む事なく許可してくれた妻には感謝しかありません。怪我をした当時、幼かった子供達も今では中学生で、何かと助けてくれるようになりました。ありがたい限りです」
周囲には沢山の人がいる。そして、馬がいる。坂田の声は、幸せそうに弾んでいた。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)