【深掘り「鎌倉殿の13人」】北条義時が守護終身在職制の中止を撤回した呆れた結末
今回の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、北条義時が守護終身在職の中止を強引に行おうとした。その結末について、詳しく掘り下げてみよう。
■守護の怠慢
承元3年(1209)11月、諸国の守護の怠慢によって群盗が跋扈していると、各地の国衙から報告があった。そこで、幕府ではただちに協議を行うことになった。
そこで議論になったのは、世襲で守護を任せることが、職務怠慢につながるというものだった。最初から守護の地位に留まることが前提ならば、たしかにあり得る話である。今でも世襲制が忌避されるのは、能力に関係なく登用されるからである。
そこで、幕府としては、守護の終身在職を止めて、任期を定めることが改善策と考えた。つまり、職務怠慢の守護を更迭し、忠勤に励む者を新たに守護に任じるという考えである。現在の成果主義に通じるような形式に改めようというのだ。
一見すれば、ごく普通の考え方かもしれないが、御家人から大きな反発を食らったのである。むろん、この案を提案したのは、義時自身にほかならない。御家人への一種の抑制策である。
■猛反対する御家人たち
こうした政策は合理的だったかもしれないが、御家人たちは猛反発した。というのも、後述するとおり、御家人は頼朝の下文によって守護になったという、それぞれの由緒があったからだった。
千葉成胤の先祖は元永以降、千葉荘の検非違所を務めており、頼朝の代になって下総国守護に任じられていた。三浦義村は祖父の義明が天治以降、相模国の雑事や検断に携わっていた。
小山朝政は藤原秀郷以降、13代にわたって下野国の奉行をしており、この間に中断した例はないと主張した。頼朝の代になって、下野国守護を賜ったという。
■まとめ
義時は有力御家人の主張に抗しきれず、自身の案を撤回せざるを得なくなった。それぞれが頼朝の下文を根拠としていたので、どうしようもなかったのである。さすがの義時も、あまり強引なことをできなかったのだ。