「グリーンブック」:5才のボクが、オスカー受賞者になるまで。
「グリーンブック」がオスカー作品賞を受賞した舞台で、プロデューサー兼脚本家のニック・バレロンガは、ピーター・ファレリー監督のすぐ隣に立っていた。彼がスピーチをする時間はなかったが、その少し前の脚本賞の受賞スピーチでは、「お父さん、僕らはやってみせたよ」と言っている。
その“お父さん”は、トニー・バレロンガ。「グリーンブック」でヴィゴ・モーテンセンが演じた主人公だ。そもそも、「グリーンブック」は、子供時代にあの出来事を体験したバレロンガが、「大人になったら絶対にこの話を映画にする」と強く決意したことから生まれた作品なのである。
舞台は1962年。勤務していたナイトクラブが2ヶ月間閉まることになり、職を探していたイタリア系ニューヨーカーのトニーは、黒人のクラシックピアニスト、ドクター・ドン・シャーリー(マハーシャラ・アリ)に運転手として雇われ、人種差別の根強い南部をツアーして回ることになる。お金のためとはいえ、夫が2ヶ月も家を離れることを、妻のドロレス(リンダ・カーデリーニ)は、快く思わない。それは、バレロンガの「幼い頃の最初の思い出」だった。
「僕は、映画に出てくるふたり兄弟の上のほう。小さい子供を使って撮影するのは大変だから、映画ではもっと年上の子役を雇ったが、当時僕は5歳、弟は3歳だった。カーネギー・ホールにあるドクター・シャーリーの家にも連れて行ってもらったよ。映画の中のドクター・シャーリーの部屋や服装を見て、『こんなの、ありえない』と思うかもしれないが、あれはみんな本当なんだ。いや、実際にはむしろもっと極端だったな」。
この出来事を映画にすると宣言したのは、15歳か16歳の時。あの話は何度となく父とドクター・シャーリーから聞いていたが、その頃からカセットテープにふたりの話を録音するなどして、真面目に記録を取るようになる。30代になる頃には、脚本こそ書いていないものの、ストーリーの輪郭はでき、売り込もうと思えばできるような状態になっていた。その先に進まなかったのは、ドクター・シャーリーが、「自分が死ぬまで、映画は作らないでほしい」と言ったからだ。バレロンガはその約束を守り、彼が亡くなってから、本格的に脚本の執筆作業に取り組んだ。当初は監督も自分でやるつもりだったが、今作の共同脚本家でもある友人ブライアン・カリーを通して、ファレリーが興味を持っていると知る。
「ブライアンと僕は30年来の知り合い。彼は父のことも知っている。もともと、僕は、この脚本をひとりで書こうと思っていたが、自分は近すぎるかもしれないという懸念があった。それに、ブライアンのライターとしての実力も認めていたので、一緒に脚本を書いてもらうことにしたんだ。すると、ブライアンを通してこの物語を知ったピート(・ファレリー)が、ぜひ関わりたいと言ってきてくれたんだよ。会ってみて、僕はすぐにピートが好きになった。その時もまだ自分で監督したいという気持ちはあったが、『エゴは捨てて、彼に任せるべきだ』と僕は思い、一緒に組むことにしたのさ。ただし、僕は常に深く関わり続け、プロデューサーも務めるという条件でね」。
トニー役の第一候補はジェームズ・ガンドルフィーニだった
そうやって軌道に乗り出した頃、バレロンガは、父を演じる俳優は絶対にイタリア系アメリカ人でないとダメだと思っていた。
「その前にも、実はジェームズ・ガンドルフィーニに話を持ちかけていたんだよ。彼は父と知り合いだったし、理想的だと思ってね。だが、残念なことに彼は亡くなってしまった。ピートが監督することになってからも、僕らは何人かイタリア系アメリカ人の俳優を候補に挙げたんだが、ある時、話し合いの中で、ふとヴィゴの名前が出てきたんだ。ヴィゴはイタリア系ではない。でも、彼は、僕ら全員にとって、お気に入りの俳優だった。それに、僕は、『ゴッドファーザー』のことを思い出したんだよね。あれは、イタリア系が主人公の代表的映画。でもマーロン・ブランドは、イタリア系ではない。それで、僕はピートに、『ぜひヴィゴにお願いしてみてほしい』と言ったのさ」。
そんなふうに彼らは納得したのだが、言われたほうのモーテンセンは、そうではなかった。イタリア系でない自分が、イタリア系俳優がやるべき役をやることに抵抗を感じた上、実の息子であるバレロンガも、本当のところは嫌なのではないかと懸念したのだ。だが、モーテンセンは、バレロンガの親戚一同から、大歓迎を受けることになる。
「僕と弟は、ヴィゴに、父がいつも身につけていたチェーンをあげたよ。映画の中で彼がつけているやつだ。父の声を録音したものもたっぷり聴かせてあげたし、ヴィゴを僕の弟の家や、親戚の家に連れて行ったりもした。映画の中に、ピザをカットしないで1枚丸ごと折って口に入れるシーンがあるが、あれは父がいつもやっていたことなんだよ。この映画のヴィゴは、まさに僕の父。リンダも、母をしっかりつかんでくれた。彼女も親戚全員と話をしているよ。彼女が映画でつけているジュエリーは、結婚指輪も含め、全部母のものだ」。
今作は、あの2ヶ月だけを語るもの
この映画の準備をするにあたっては、生前、ドクター・シャーリーにも、どこを入れてどこを省くべきか相談し、承諾を得ている。
「彼に気遣って、『ここは入れないほうがいいですよね?』と聞くと、彼はたいてい、『いや、入れなさい。起こったとおりに語りなさい』と言ったよ。それ以上にも、以下にもするな、と。彼はまた、父との出会いからこの映画の結末となる部分までにするようにとも言った。自分の人生の、それ以外のことについては語りたくないとね。実は、彼らは次の年にもツアーに出ているんだけれど、そんなこともあって、あのクリスマスで終わりにしたのさ。『素晴らしき哉、人生!』みたいでもあるし、ちょうどいいとも思った」。
オスカーキャンペーン中には、「グリーンブックというタイトルのわりには、実際のグリーンブック(黒人が利用できる施設をリストした旅行ガイド)についてあまり語っていない」「ドクター・シャーリーの人となりや実績をもっと語るべきだった」などという批判が出た。だが、それらはまったく焦点がずれているとバレロンガは主張する。
「ドクター・シャーリーが市民権運動に関わったことも、彼のミュージシャンとしての功績も、僕は全部知っている。僕の父だって、あの後、俳優として活動したりもしている。息子としては、そういうのを入れたい気持ちは当然あったさ。だけどドクター・シャーリーは、あの2ヶ月だけにしたかったんだ。それに、そこだけでも、中身はたっぷりある。あらゆることに触れているとも思う。グリーンブックについて深く検証する映画が求められるならば、別の人が作ればいい」。
そもそも、この映画の最初のタイトルは、「Love Letters to Dolores(ドロレスへのラブレター)」だったのだ。タイトルが変わったのは、ファレリー監督が、「そのタイトルだと、男が見に行かない。少なくとも、僕はそんなタイトルの映画を絶対見に行かない」と言ったからである。その事実にも、今作が、父の目から見たあの2ヶ月を語るものであることは、明らかだ。「白人が黒人を救ってあげるパターンだ」との批判にも、バレロンガは、「あの旅で、父は、ドクター・シャーリーのボディガードだったんだよ。ドクター・シャーリーが危険な目に遭った時に出て行って助けるのは、父の仕事だったんだ」と反撃する。「ふたりの男が車にいて、しゃべっている。これは、その話。人は政治的視点から攻撃してくるけれど、僕らが作ったのは、そういう映画だ」。
そんな映画を、天国にいる父と母は、きっと気に入ってくれているはずだと、バレロンガは確信している。
「母は、きっと喜びの涙を流していることだろう。父は、『俺についての映画なんだから、良いのは当たり前だ』と言っていると思う」。
ドクター・シャーリーは、その横で静かに微笑みを浮かべているのだろうか。
「グリーンブック」は3月1日より全国ロードショー
場面写真:2018 UNIVERSAL STUDIOS AND STORYTELLER DISTRIBUTION CO., LLC.