【深掘り「鎌倉殿の13人」】バチバチのバトルを演じた源頼家の2人の妻とは
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の27回目では、源頼家の2人の妻がバチバチのバトルを演じた。頼家の妻についてはあまり知られていないので、詳しく掘り下げてみよう。
なお、ドラマのなかで頼家の妻は、名前が「せつ」(比企能員の娘)、「つつじ」(足助重長の娘)となっているが、以下、一般的な「辻殿」(足助重長の娘)、「若狭局」(比企能員の娘)と表記する。
■正室については不明
頼家に複数の妻がいたのは事実であるが、誰か正室だったのか明らかではない。『吾妻鏡』によると、辻殿(足助重長の娘)は「室」、若狭局(比企能員の娘)は「愛妾」と書かれている。
普通に考えると「室」が正室であり、「愛妾」は側室を意味する。しかし、嫡男とみされた一幡は、頼家と若狭局の間にできた子だった。この点は、いささか不可解な点である。
若狭局の父・比企能員は、北条時政と対立して滅ぼされた。『吾妻鏡』は北条氏が編纂に関与したのだから、比企氏の血筋を嫌って、あえて若狭局を「愛妾」とした可能性はないのだろうか。
■辻殿
辻殿は生没年不詳。先述のとおり、三河の武士だった足助重長の娘である。頼家と辻殿との間に生まれたのが公暁である。公暁は、のちに3代将軍となった実朝(頼家の弟)を殺害した人物である。
しかし、公暁の母は『源氏系図』(県篤岐本)では三浦氏の娘とされ、『尊卑分脈』では若狭局とされている。この点は不審であるが、今となっては確かめようがない。
元久元年(1204)7月、夫の頼家は幽閉先の伊豆国修禅寺(静岡県伊豆市)で、北条氏の手の者に暗殺された。承元4年(1210)に辻殿は出家したが、それ以後の動静は不明である。
■若狭局
若狭局は生年不詳。比企能員の娘として誕生した。母は「ミセヤノ太夫行時の娘」といわれている。能員は頼家の乳母父だったので、その関係もあって若狭局は頼家の愛妾となった。2人の間に誕生したのが一幡である(諸説あり)。
建仁3年(1203)に比企能員の変が勃発すると、比企一族は北条時政・義時の軍勢に攻められ滅亡した。その際、若狭局も一族と運命をともにしたといわれているが、異説として一幡とともに落ち延び、北条氏の手の者に殺害されたとの説もある。
■まとめ
実は2人のほかにも、頼家の側室として一品房昌寛の娘(三男栄実、四男禅暁を産む)がいる。一品房昌寛は、頼朝の右筆だったという。また、源義仲の娘も頼家の側室だったと伝わっており、ほかにも三浦氏の娘なども系図などに見える。
とはいえ、頼家の妻に関する史料は乏しく、今後の課題も多いといえる。