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伝説“銀巴里”の世界を歌い継ぐクミコ、95歳両親の介護から見えてきた未知の世界

島田薫フリーアナウンサー/リポーター
人生のテーマは「生きることと死ぬこと」と語るクミコさん(撮影:島田薫)

 閉店から30年以上経った日本初のシャンソン喫茶「銀巴里(ぎんパリ)」は、今なお語り継がれる伝説のお店です。一線の文化人たちが集い、小さな独特の空間で繰り広げられてきたステージの数々。そんな「銀巴里」の世界を、現役歌手として歌い継ぐ役割を担っているクミコさんが、歌番組でフルコーラスを披露した『ヨイトマケの唄』は、あまりの気迫に気圧され、優しく語るように歌う『時は過ぎてゆく』は耳を澄まして聴きたくなります。紡ぎだす歌声の裏側には、ご両親の「生」に対する覚悟がありました。

―クミコさんの最新シングル(『時は過ぎてゆく/ヨイトマケの唄』)が、「銀巴里」を彷彿させると注目されています。

 人生も終わりに近づいてきたからか(笑)、後ろを振り返る年齢になったからなのか、なんだかんだ言ってシャンソン系のモノが性に合っているのだと思います。

 「銀巴里」が有名だったのは、美輪明宏さんが昭和25(1950)年の立ち上げから閉店までの40年間、ずっと中心にいらしたことも大きかったと思います。山口百恵さんが歌を聴いて涙したという話で、シャンソン歌手・金子由香利さんが大ブレイクして一気にスポットが当たり、「銀巴里」にとっても大きな意味のある時代でした。私がいたのは、閉店(1990年)までの9年間です。

―華やかな時代ですね。

 銀座7丁目の地下にある小さなお店で、隠れ家みたいな雰囲気でした。東京・日比谷公園でデートをしていたボーイフレンドから「いい所に連れて行ってあげる」と言われて行ったのが「銀巴里」です。

 ドアを開けて降りて行く途中から音楽が聴こえてきて、平日の夕方なのにカルテット(4人)で生演奏という豪華さ。らせん階段の壁にはパリの画が描いてあって、まるでパリの街角のような雰囲気でした。

 店内は、椅子が学校みたいに皆1つの方向に向いて机があって、小教室みたいでした。おもしろいのが、コーヒー1杯でいつまでもいていいの。最高のぜいたくでしたね。

「銀巴里」の伝説を語り継ぐ(撮影:島田薫)
「銀巴里」の伝説を語り継ぐ(撮影:島田薫)

 私のギャラは1080円(笑)。1ステージではなくて1日ね。1日5~6ステージで10曲くらい歌っていました。楽譜のコピー代と交通費を引いたらもう終わり。でも「銀巴里」はお金ではなく、ステータスなんです。分かりやすく言うとNHK「紅白歌合戦」に出たようなもので、シャンソン界で“お墨付き”になるんです。

 美輪さんは派手な格好で銀座を練り歩き、呼び込みをされていたそうです。お化粧をして全身紫色で「いらっしゃい」と街行く人に声をかけていたと聞きました。戦後間もない日本でそれをやってのけた美輪さんはすごいです。

 美輪さんがいることで、三島由紀夫さんはいらっしゃるし、当時大学生だったなかにし礼さんが訳詞家になったのもこのお店ですし、寺山修司さん、横尾忠則さん…ありとあらゆる文化人の方がいらして1つの文化の頂点みたいになっていました。なぜか永六輔さんも歌ったことがあるという(笑)。

―その美輪さんが作詞・作曲して歌っていた『ヨイトマケの唄』をクミコさんが歌われることに。

 『ヨイトマケの唄』は、ヨイトマケ(かつて建築現場などでの地固めの際、大勢で重い槌を滑車であげおろしすること、その作業を行う人)のお母さんと、エンジニアになった息子の唄です。歌ってみたらすごいフィット感で、何だろうと思ったら、私の父の話でした。父はエンジニアで、昔の写真を見ると、図面を書いてワイシャツをたくし上げている姿がカッコいい。昭和30年代の高度経済成長期、誇りを持って一生懸命働き続けている父に、この歌が重なりました。

―金子由香利さんの『時は過ぎてゆく』は?

 金子さんは恩人です。「銀巴里」のオーディションに行った時の私は、越路吹雪さんと『サン・トワ・マミー』しか知らなくて、普通ならミーハー扱いされて終わりですが、金子さんがブレイクしたことで店は“押すな押すな”の大盛況、経営状況がよくて「こういう子もおもしろい」と合格できたんです。

 実際に行って終始泣いたのは、金子さんのコンサートが生まれて初めてで、あまりのショックで二度と行けなくなりました。何で感動したのに二度と行かないのかと思うかもしれないけど、素晴らしすぎると不思議なもので行けなくなるんです。

「銀巴里」で歌うクミコさん,1980年代(事務所提供)
「銀巴里」で歌うクミコさん,1980年代(事務所提供)

 笑わない歌い手を初めて見ました。黒づくめの衣装で出てきて、緊張の表情のまま歌いだした瞬間、向こうの世界に連れていかれ、私はすべての物語の主人公になりました。自分が1人で帰ってきた部屋に恋人はいない、苦しい、と彼女が舞台の端で歌いだすと、照明が当っていない所に闇が生まれる。それを見て、この闇を抱えながら人は生きるのだと腑に落ちたんです。涙が止まらなくて、「私はこの闇と戦う人生だ」と、一事が万事、全部自分のことに感じられました。

 おそらく山口百恵さんも同じ思いだったと思います。今回CDをリリースするにあたりプロデュースしてくださった残間里江子さんが、当時金子さんを聴きに「銀巴里」にいらしていたのですけど、百恵さんが金子さんのファンだと知り、まだ面識もなかった時に、あの手この手で2人をつなげられたのです。後日実現したコンサートで百恵さんは涙を流し、金子さんの魅力が多くの人に届いた瞬間でした。

 越路さんはシャンソンを華麗にショーアップし、大きな劇場でチケットも取れない大人気。大きく手を広げて華やか、指先で人の心をつかむ人でした。金子さんはぶっきらぼうに出てきて、ふっと歌いだしたら、小さな場所だけどすべてを持っていってしまう。真逆の世界を見せられ、人生を変えられるという経験を初めてしました。

 シャンソンは、年齢が武器になる唯一の音楽でもあります。年を取ることが敗北ではないと思えることが幸せ。迷いながらでも日々試行錯誤、毎日を丁寧に生きていく強み・重さにかなうものはない。どんなにぶざまで情けなくても悲しくても、日々を一生懸命生きて歌う。その説得力にかなうものはないんです。

 この2曲は真逆ですが、『ヨイトマケの唄』は歌っていて今現在の父を思い出すと感情がこみあげてきて…この歌がこんなに自分にリアルに重なると思っていなかったので、歌う時はすごく力が入っちゃいます。

「今、両親のことを何より大事に日々を送っています」(撮影:島田薫)
「今、両親のことを何より大事に日々を送っています」(撮影:島田薫)

―今、ご両親の介護をされているそうですね。

 母がケガをしたのをきっかけに、介護というかお世話する生活が始まって11年目になります。両親ともに95歳ですが、本人も私も経験したことのない領域です。日常ではなかなかこの年齢の人に会うこともないですよね。私もこれまでは、昔テレビで見た「きんさんぎんさん」(90年代話題になった当時100歳の双子姉妹)くらいです。

 父は施設に入っていますが、自分がどこにいるか分からない。会社だと思っていたりもします。そして会うたびに泣いています。最初はショックでしたが、今は父の涙をふくのが私の役割。父が「寂しい」と言ったらその言葉を受け取って励ます。でも、この死に行く人に向かって人は何を励ませるのか。「寂しくないよ、大丈夫だよ」と、何をもってそんなことを言えるのか…日々格闘です。

 母は在宅ですが、あんなにシャキシャキ速足だった人がヨチヨチ歩きになってしまい、本人は、心はしっかりしているのに、なぜ手足はこれしか動かないのかと、ジレンマを抱えています。元々きちんとしていた人ですが、今は夜遅くまで起きている不良老人です(笑)。

―クミコさんの心の拠り所は何ですか?

 しんどいけど“人生は面白い”と思えること。5年前はきつくてへたってどうしようもなかったけど、お腹もすくし、人間はなかなかくたばらない、しぶといものだということが分かると笑えてきます。“死”は先が見えないと思っていたのに、近くなってくると、たかだかこんなものだと居直って気が楽になります。大きな楽観性を持たないとやっていられない。それが身についたことが、今の私の支えになっています。親が教えてくれたことです。

 これまで恋・愛、そして生きること・死ぬことを歌ってきたけど、それがすごくリアリティを持ってきました。今の私の最大の関心事は「生きることと死ぬこと」。人はどう老いていくのか、父母がどう死んでいくかをしっかり見ることです。その延長線上に歌がありますが、2人を見送った後に私はどう歌えるのか、もしかしたら歌えないかもしれない。

 でも、この曲が届くなら最後でもいいと思えるほど、魂がこもっています。シャンソンというものが時の流れに置いて行かれる絶滅危惧種になり、誰かが歌い継いでいかねば、少しでも今まで恩をもらってきた先人への恩返しになればという思いで歌っています。

銀座7丁目「銀巴里」跡地で石碑と記念撮影(事務所提供)
銀座7丁目「銀巴里」跡地で石碑と記念撮影(事務所提供)

【編集後記】

クミコさんの言葉すべてが詩的で情緒豊かで胸に響きます。「銀巴里」での文化的な日々、人生を変えてくれた金子由香利さんを始め、多くの先輩たちの存在、人生のテーマでもある「生きることと死ぬこと」。今、人生最大のテーマと闘っているにもかかわらず、クミコさんのすごいところは明るさです。シリアスな話も毒と笑いを交えながら話される姿は、何とも魅力的でした。

■クミコ

1954年9月26日生まれ、茨城県出身。早稲田大学卒業。1978年、「世界歌謡祭」に日本代表の1人として参加。1982年、シャンソンの老舗・銀座「銀巴里」のオーディションに合格し、プロとしての活動をスタート。1999年、作詞家・松本隆氏と出会い、翌年松本氏のプロデュースアルバム『AURAアウラ』を発売。2010年、NHK「紅白歌合戦」に出場。数々の曲をリリースし、各地でコンサートを開催。2011年、コンサートで石巻市を訪れていた際に東日本大震災が発生し被災。これをきっかけに復興支援活動にも取り組んでいる。『時は過ぎてゆく/ヨイトマケの唄』は現在発売中。「クミコ コンサート 2023わが麗しき歌物語vol.6~銀巴里で生まれた歌たち…時は過ぎてゆく~」詳細はクミコオフィシャルサイト:https://www.puerta-ds.com/kumiko/index.html

フリーアナウンサー/リポーター

東京都出身。渋谷でエンタメに囲まれて育つ。大学卒業後、舞台芸術学院でミュージカルを学び、ジャズバレエ団、声優事務所の研究生などを経て情報番組のリポーターを始める。事件から芸能まで、走り続けて四半世紀以上。国内だけでなく、NYのブロードウェイや北朝鮮の芸能学校まで幅広く取材。TBS「モーニングEye」、テレビ朝日「スーパーモーニング」「ワイド!スクランブル」で専属リポーターを務めた後、現在はABC「newsおかえり」、中京テレビ「キャッチ!」などの番組で芸能情報を伝えている。

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