ただの珍名馬ではないオニャンコポンの、調教師とオーナー、二十年来の絆とは?
変更されてつけられた名前
オニャンコポン。
アカン語で“偉大な者”という意味らしいが、初見でその意を汲み取る日本人が何人いるだろう? 管理する小島茂之もやはり同様だった。
「最初は別の名前で登録される予定でした。それがどういうわけか変更されました。アカン語とか言われても分からないので『田原さんが今までとは違う思い切った命名をしたな……』と感じました」
“田原さん”と言われたのは同馬を所有する田原邦男オーナー。小島とは二十年来の仲だった。
後にオニャンコポンと名付けられる牡馬を、小島が初めて見たのは2019年の夏だった。
「セレクトセールに出る馬で、オーナーからリクエストのあった馬は、その前の下見から大体3回くらいは見るようにしています。オニャンコポンも同様でした。毎回、細い印象を受けました」
当歳馬のセリ当日、金額面でなかなか折り合わず購入出来ないまま、後半に突入。そこで出て来たのがエイシンフラッシュの牡馬だった。
「エイシンフラッシュの評価が定まっていない頃でしたが、田原オーナーはネガティブなイメージを持っていなかったようで、競って来る相手もなく800万円くらいで購入出来ました」
小島自身は過去にエイシンフラッシュ産駒を1頭やった事があった。その馬は少々難しい面があったが、この時点でのオニャンコポンは決してそうは見せなかった。だから「やってみないと分からない」と、オーナーに同意。同馬との物語の幕が明けた。
「2歳の入厩時にもまだ肉がついてこなくて細い感じでした。でも牧場での評判は決して悪くなく『体力がある』という話でした」
心配していた気性も全く問題なく、それどころかむしろ大人し過ぎると感じるほどだった。
「だから厩舎で1番若い子でも乗れました」
その上で、動きそのものも良かったと続ける。
「初めてウッドで追う時には『動かし過ぎないように』と指示をしたのですが、それでも時計が速くなりました。ただ、乗り手は『終始楽でした』と話したので、走る馬という手応えを感じました」
デビュー前のゲート練習では実戦でもタッグを組む菅原明良を乗せた。
「無理して出さないで良いと伝えたのですが、上がって来たら『速かったです』と言っていました」
このスタートセンスが武器になる事は、新馬戦で証明された。大人しい気性という事でメンコ(耳覆い)など目立った扶助となる馬具は使わず(元々小島厩舎は藤沢和雄厩舎同様、メンコはパドック等では使用してもゲート裏で外し、レース中はほとんど装着しないのだが……)に挑んだデビュー戦での話を小島は次のように言う。
「練習で速くても競馬へ行くと遅い馬も多々います。でもオニャンコポンは初めてのレースでも上手に出ました」
ポンとスタートを切ると楽に先行。最後は良血馬を抑えて先頭でゴールを駆け抜けた。
すると2戦目も好スタートから先行。早目に先頭に立つと、最後は後続勢の追い上げをクビ差しのいで連勝した。
「明良(騎乗した菅原明良騎手)の話では初戦は少し行きたがったようですが、2戦目は楽だったみたいです。『切れる脚がないと思って早目に動いたけど、意外と切れました』と言っていました」
GⅠで敗れたが、すぐにGⅢに挑戦
2000メートル戦でデビュー2連勝。続く1戦で同じ距離のGⅠのホープフルSに挑ませた。
「相手が一段と強くなるので調教も少し上げて行きました。追い切りに乗った明良も好感触を得たようで、通用すると思って臨んだのですが、考えていた以上に負け過ぎました」
指揮官がそう言うように、結果の11着は負け過ぎだったのかもしれない。しかし、ここでも持ち前の先行力を披露した。4コーナーから直線へかけてはかなりモマれる場面もあった。それでいて本当に止まったのは最後だけ。内容的には着順ほど悪くないと思えた。
そして、その見解に誤りがない事を、1ケ月と満たないうちに証してみせる。京成杯(GⅢ)に出走したオニャンコポンは、後方から豪快に差し切り勝ち。父エイシンフラッシュとの父子制覇を決めてみせた。
「ゲートでは多少チャカついたけど、逃げようと思えば逃げられるくらいのスタートでした。でも、レース前に明良と『今回は抑える競馬をしよう』と話し合っていた事もあり、下げたようです。他が動いた時もジッとしていた分、更に下がったので『ちょっと厳しくなっちゃったかな……』と思ったのですが、その後、良い感じで進出しました。4コーナーでの手応えを見た時には『3着くらいまでは来るかな?』と思ったけど、それどころか最後は考えた以上に伸びて勝ってくれました」
再三記したように発馬のセンスと大人しい気性が「良績につながっている」と小島は言う。
「京成杯はキャリアの浅い馬が多かったせいか装鞍所で暴れる馬がいて、それにつられて結構な数の馬がうるさくなりました。そんな中、オニャンコポンは全く動じずジッとしていました。余計なところで不必要な力を使わない。これもこの馬の能力だと思います」
星になってしまった馬がとりもった縁
話は2002年まで遡る。
当時、技術調教師として翌年の開業を控えていた小島は「勉強の一環」としてセレクトセールを見学しに行った。そこで”新しく馬主になる人”として紹介されたのが田原オーナーだった。
「その場で『フサイチコンコルドの牝馬がいるのですがやってもらえますか?』と言われ、喜んで預からせていただく事になりました」
ロイヤールハントと名付けられたこの馬は、翌03年にデビュー。2戦目には3番人気に支持された。しかし、そのレースで心臓麻痺を発症し死んでしまった。
「申し訳ないと思ったのですが、オーナーと生産牧場さんのご厚意で2つ下の妹も私に預けていただける事になりました」
それがブラックエンブレムだった。
ブラックエンブレムは08年にフラワーC(GⅢ)を勝利し、小島にとって開業6年目での嬉しい初重賞制覇をもたらしてくれた。
更に、秋には秋華賞(GⅠ)を優勝。これが厩舎にとっても田原オーナーにとっても初のGⅠ勝ちとなり、両者の絆は固く結ばれた。そして知り合ってから約20年の時を経て、オニャンコポンにつながったのだった。
改めて小島は言う。
「オニャンコポンがあまりに大人しいので、ふと思い出した事がありました」
それはエイシンフラッシュが日本ダービー(GⅠ)を勝った直後の話だと言う。
「社台ファームでエイシンフラッシュを見させてもらう機会があったのですが、その際、吉田照哉社長が『この馬は1時間でも2時間でもジッと黙って立っていられる』と言われていました」
見ると、実際にそういう感じだった。
「オニャンコポンにはその血が受け継がれているのだと思います」
父・エイシンフラッシュは京成杯を勝った後、皐月賞(GⅠ)3着を挟んでダービーを制覇した。果たしてその血をひくオニャンコポンが同じ道を歩んだ時、彼はその名に負けない“偉大な者”になるのだろう。小島の手腕に期待したい。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)