脇阪寿一がGT500ドライバーから引退。SUPER GTのチーム監督に就任を発表。
2月4日(木)、都内で開催されたトヨタ自動車のモータースポーツ体制発表会「TOYOTA GAZOO Racing プレスカンファレンス」において、衝撃的な発表が行われた。なんと、国内屈指の人気レーシングドライバーであり、「SUPER GT」GT500クラスで3度のチャンピオンに輝いた脇阪寿一(わきさか・じゅいち)がGT500ドライバーからの引退を発表。今後は古巣である「チームルマン」のGT500チーム監督に就任することになった。なお、レーシングドライバーとして完全に引退するわけではなく、耐久レースシリーズ「スーパー耐久」、「86/BRZレース」には参戦を続ける。
電撃的な引退発表
ツイッターのフォロワー4万人以上を持つ人気ドライバーの突然の発表はファンにとって、まさに寝耳に水の出来事だった。こういった新しいシーズンの体制発表会で現役選手がトップカテゴリーからの引退を表明するのは異例中の異例のこと。誰もが予想だにしない展開になった。
今季の新チームラインナップがステージ上で発表されたのち、脇阪寿一が呼ばれ、「私、脇阪寿一はSUPER GT / GT500から退く決意を致しました。1998年から18年間もの間、長くSUPER GTの舞台でレースをさせていただいたのはスポンサーの皆様、トヨタ、TRD、レクサスの皆様、チーム関係の皆様、サーキット、そして何よりファンの皆様のおかげだと思っています」と突然のSUPER GTからのドライバー引退を切り出した。
そして、今後について「今年は新たに古巣チームルマンの監督として大嶋選手、カルダレッリ選手がタイトルを獲れるようにそちらをバックアップしていきたいと思います」とチーム監督への就任を発表。「チームルマン」は2002年、脇阪寿一が初のGT500クラス(当時は全日本GT選手権)でチャンピオンを獲得したチームであり、フォーミュラニッポン(現在のスーパーフォーミュラ)時代にも所属したチーム。今季はメインスポンサーが和光ケミカルとなり、「LEXUS TEAM LEMANS WAKO’S」の指揮官として、脇阪自身が勝ち取った2002年以来のチャンピオン奪還を狙う。
近年のレース界の牽引役、脇阪寿一
レーシングドライバーとしての脇阪寿一は常に異彩を放つ存在であり、現役レーシングドライバーたちのリーダーだった。それだけにこの突然の発表は衝撃が大きい。
脇阪寿一はレーシングカート時代から非凡な才能で頭角を表し、1995年に全日本F3選手権にデビュー。近年では考えられない事だが、育成プログラムが確立されていなかった当時はレーシングカートからいきなりF3に乗って4輪レースを戦うことに。そして、96年に全日本F3選手権で2年目にしてチャンピオンを取ると、翌97年には国内最高峰のフォーミュラニッポンにデビュー。2年目の98年には優勝も飾っている。
そしてGTのドライバーとしては1998年にホンダ系のエースチーム「TAKATA童夢NSX」のドライバーとしてGT500クラスにNSXでデビュー。99年には初優勝も飾っている。まさに飛ぶ鳥を落とす勢いでレーシングカートからのし上がってきた脇阪は2001年にトヨタ系の「チームルマン」に移籍。2002年に同チームの「ESSOウルトラフロースープラ」に乗り初のGT500チャンピオンに輝いている。
2000年代前半はホンダ、トヨタ、日産の3大メーカーが今のように協力しあってモータースポーツを盛り上げる雰囲気がまだ少なかった時代。まさに水と油のごとくメーカー間でサーキットを舞台にした戦争をしていた時代に、今では珍しいメーカー間の移籍をして王座に輝いたドライバーだ。その後も2006年、2009年と名門「トムス」に移籍してレクサスSC430で合計3度のチャンピオンを獲得。常にチャンピオン争いに絡むトップドライバーとして、アグレッシブな走りでファンを魅了した。
オピニオンリーダーに豊田社長からメッセージ
激戦の時代を自らの腕で勝ち抜いてきたドライバー、脇阪寿一の人気の理由は走りだけではない。トップドライバーになってから、「ジャンクスポーツ」などゴールデンタイムのテレビ番組にも度々出演し、お茶の間にモータースポーツの魅力を伝え続けてきたことも脇阪寿一のドライバーとしての大きな功績だ。
彼がメディアを通じて垣間見せた陽気で「おもろい」キャラクターは「SUPER GT」などのレースに興味をもったばかりのライトなファンの重要な入り口になった。SNSを使ったファンへのメッセージ発信にも早くから積極的で、2011年の東日本大震災発生時には「SAVE JAPAN」という義援金プロジェクトを立ち上げ、ファンに呼びかけた。こういったトップドライバー自らの積極的な活動は、現在のメーカー間の垣根を超えたモータースポーツ振興が生まれる流れの一つだったと言える。レーシングドライバー界のオピニオンリーダーとしての脇阪寿一は常に注目を集める存在だった。
そんな脇阪に記者発表の壇上で(この日は欠席となった)トヨタ自動車・豊田章男社長からメッセージが届けられた。
「2001年より15年間、トヨタの仲間として活躍してくださり、本当にありがとうございました。SUPER GTでも3度のチャンピオンを獲得してくださいました。ニュル(ニュルブルクリンク24時間レース)のプロジェクトでもトヨタの味作りに力を貸してくださいました。また、選手として活躍する傍ら、テレビやイベントなどでクルマの楽しさを伝える広報部長的役割も担って頂き、私、モリゾウ(豊田社長)の思いを分かりやすい言葉に置き換えてお客様に伝えてくれる一番の代弁者であったと思います。(中略)現役を引退されるということで、これからは広報部長ではなく、広報担当役員というくらいの立場でさらなる活動をお願いします。というわけで、ご昇格おめでとうございます」
上記のようなメッセージを自動車メーカーのトップがレーシングドライバーに贈ることは非常に稀なことである。3度のチャンピオンとしての功績をしっかりと讃え、第2の人生を華々しくスタートできるドライバーはそうそう居ない。
脇阪寿一はまだ44歳。年始にもプロ野球選手などと一緒にグアムで自主トレーニングに励んでいただけにトップカテゴリーからの引退発表は驚きだった。SUPER GTではGT300クラスでプロドライバーとしてまだまだ活躍する道もあっただろう。しかし、ドライバーとしてトップカテゴリーへの階段をトントン拍子で駆け上がり、王者として君臨してきた脇阪にとって、潔く、次なる仕事に打ち込むことを決めたのは「トップドライバー脇阪寿一」の美学なのかもしれない。今後のチーム監督としての第2の人生の手腕にも大いに期待したい。