「日本メディアは自分たちの行動と正反対のことを報道していた」NYタイムズ東京支局長
メディアと権力の距離
日本の新聞社で大阪社会部と、東京の政治部・外信部で勤務した経験を持つ筆者には「虫の目(下から目線)」の大阪ジャーナリズムと、天下国家を論じる「鳥の目」の東京ジャーナリズムの違いになじめなかった。
「朝日新聞で一番良い記事を担当しているのは、高知新聞出身の編集者でしょ。ジャーナリストには権力に対する懐疑主義が必要です。ハードボイルドでタバコをくわえ、『この野郎!』と独りで歯ぎしりしているようなイメージです」
東日本大震災と福島第1原発事故の報道で日本メディアに異を唱えたマーティン・ファクラー米紙ニューヨーク・タイムズ東京支局長がロンドンにあるシンクタンク、英王立国際問題研究所(チャタムハウス)で講演した。
メディアと権力の距離感は難しい。
「日本の大手ジャーナリストはエリート組織の一部のような感じがします。早稲田や東大という同じ大学、同じシステムを出て、東京海上か朝日新聞に就職する。同じような試験を受けて、同じような意識を持ち、同じソースで記事を書いている」
「センスも外見も同じ上流階級なんです。だから書く記事も似たり寄ったりのものになる。でも地方紙は全然違います。全国紙で働いているジャーナリストとはタイプが違います」
ファクラー支局長の話の中で一番痛烈だったのは、「ジャーナリストは最低限、自分が心の中で感じたり、思ったりしていることと180度反対のことを書いてはいけません」という一言だった。
ファクラー支局長は2011年3月11日に起きた東日本大震災の2週間後、福島第1原発から北へ30キロ弱離れた福島県南相馬市役所に取材に訪れた。ホールで「誰か、お話をおうかがいできる人はいますか」と呼びかけた。住民は「ワッ、記者が来た」とざわめいた。
名乗りでたのは桜井勝延市長だ。忙しい市長が海外メディアのファクラー支局長に2時間も割いて状況を説明したのは、南相馬市役所から記者が退避して誰もいなかったからだ。記者は現場には来ないのに、新聞は「パニックを起こしてはいけない」という政府の呼びかけをそのまま流していた。
「信じられませんでした」とファクラー支局長は息をはいた。
一変したメディアの風景
米国ではこの約25年の間にメディアを取り巻く環境は一変した。
ブログサイト「ハフィントン・ポスト」や非営利報道組織「プロパブリカ」、政治ニュースの専門サイト「ポリティコ」が影響力を持つようになり、名門ワシントン・ポスト紙は米アマゾン・ドット・コムの創業者ジェフ・ベゾス氏に買収された。
これに対して、日本は読売新聞980万部、朝日新聞760万部と部数を減らしているが、米国と同じような影響力を持ったオンライン・ジャーナリズムはまだ生まれていない。筆者はファクラー支局長に3つ質問した。
――日本にプロパブリカのような調査報道のできる団体が生まれる可能性はあると思いますか
ファクラー支局長「今のところ、ないと思います。日本では、既存の団体から新しいところに移動するリスクが高すぎるため、なかなか移動していく人が見当たらない。運営資金を寄付してくれる環境もありません」
――日本でもオープン・データが進んでいますが、海外メディアの特派員としてデータへのアクセスにストレスを感じたりしませんか
「フクシマに関して言えば、今でさえオープンになっていません。私は今でも日本より米国のデータを信じています」
――インターネットを使った市民社会の動きはどう評価されますか
「福島の母の会のような動きが出ています。政府の情報とは違う流れが生まれていますが、まだ玉石混淆(こんこう)です」
3・11のメディア・ショック
米国では商業紙に対する懐疑主義が根強いが、日本では東日本大震災前は新聞など主要メディアは読者の信頼を得ていた。しかし、大震災や福島第1原発事故でメディアへの信頼は懐疑主義に取って代わられた。人々はインターネットを使って自分で情報を集め始めた。
緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)の結果も迅速に公表されず、市民の怒りは政府とメディアに向けられた。
日本のメディアは自粛する傾向が強いとファクラー支局長は言う。大手メディアの記者は権力との距離を縮めることで、情報を取ろうとする。次第に権力にとって都合の悪い話は書かなくなる。
「米国では権力から情報を取ろうとする動きと、その反省から権力への監視を強める動きが入れ替わり、サイクルになっていますが、日本ではこのサイクルはなく、権力との距離を縮める動きしか働いていません」とファクラー支局長。
20~30代には「メディアが権力と添い寝するのはおかしい」と言っていたのに、40~50代になると「それで何が問題なの」と人が変わったように問題意識を喪失してしまう。
膨張する不信
市民社会はインターネットに活路を見出そうとしているのに本格的なオンライン・ジャーナリズムが生まれてこないため、「原発懐疑」「ネット右翼」「反韓・反中」がネット空間には渦巻いている。
旧日本軍「慰安婦」制度をめぐる吉田証言や福島第1原発事故の吉田調書で一部の誤報を認めた朝日新聞を読売新聞や産経新聞がここぞとばかりたたいたものの、結局、新聞不信を広げただけだった。
日本メディアにもきめ細かさという良い面はもちろんある。しかし、ファクラー支局長の話にはもっともだと頷かされるところが多かった。権力への擦り寄り。中央権力への情報の集中。新聞を読んでいても、「政権擁護のための記事なの?」と首を傾げることが少なくない。
海外では意見は違って当たり前。しかし、欧米では、相手を批判するときはきちんと実名を名乗って、根拠を示して意見を述べるルールが根付いている。彼らは子供の頃から「人と同じことはするな」と言われて育ち、教育で建設的批判を身につけている。
日本でも反骨のジャーナリストはいるが、大手メディアに少ないというのはファクラー支局長の言う通りかもしれない。しかし、筆者に言わせれば、NYタイムズ紙やワシントン・ポスト紙の権力への擦り寄りも相当なものだ。
今問われているのは、「西洋の没落」と言われる中で特に停滞著しい既存メディアや政府が自らをリインベント(再発明、モデルチェンジ)して読者や市民といった消費者の満足度を高めることができるかどうかなんだと思う。
筆者も含めて。
安倍首相の解散表明や桂三輝さんのロンドン公演、プッシー・ライオットの反プーチン・キャンペーンがあったりしてファクラー支局長の記事が書くのが遅れました。次はどうして日本のデータ・リテラシー(理解力)が低いのかについて考察してみます。
(つづく)