Yahoo!ニュース

松本人志が「履き違えてた(笑)」と振り返る“伝説”のダウンタウンの『24時間テレビ』とは何だったのか

てれびのスキマライター。テレビっ子
ダウンタウン・松本人志(写真:Splash/アフロ)

8月12日に放送された『ダウンタウンvsZ世代』(日本テレビ)では、1992年に放送された、いまや“伝説”となった『24時間テレビ』(日本テレビ)の映像がたっぷり紹介されていた。

この年、MCを務めたのは、まだ20代のダウンタウン。「当時はチャリティーという言葉の真逆にダウンタウンがいた」と麒麟・川島が振り返るように、驚きの起用だった。視聴率が低迷していた『24時間テレビ』を変えるための抜擢だった。

今田耕司、東野幸治、板尾創路らを従えた深夜のお笑い企画では、ヘルメットをかぶらせた上で、大根で思い切り殴ったり、ヘルメットにノコギリや電動ドリルを当てたりとやりたい放題。その過激な内容に苦情が殺到したという。

「『24時間テレビ』を変えたいって言われたのを、我々は履き違えていた」

松本人志は当時を振り返り、そう言って笑った。

このダウンタウンの『24時間テレビ』こそ、80年代にフジテレビに苦汁をなめていた日本テレビが90年代半ばになって逆転する、大きなターニングポイントになった象徴的な番組であることを書いたのが、2018年に刊行された拙著『全部やれ。日本テレビえげつない勝ち方』(文藝春秋社)だ。

その「序章」の『24時間テレビ』にかんする部分を改めて公開します。

日本テレビのいちばん長い日――『24時間テレビ』

前代未聞のリニューアル

一九九二年八月――。

「中継カメラを映せ! ここだー!」

「ふざけんな! 今歌わせないでどうするんだよ!」

「うるさい! 今はこっちを流すんだ!」

『24時間テレビ』本番中、日本武道館と日本テレビ本部の間で怒号が飛び交っていた。

武道館にいるのは、プロデューサーの小杉善信と渡辺弘。次々にやってくる有名タレントたちに対応しながら、それぞれに見せ場をつくるべく奔走していた。その苦労を知ってか知らずか、日本テレビの本部で全体の流れを見ながら十二台のカメラのスイッチングをしていた総合演出のひとり、五味一男は、せっかく二人が苦心し調整したスケジュールを反故にし、後述する別の“ある中継”を優先して流そうとしている。とんでもない試みだったが、そのほうがおもしろい、視聴者に求められているはずだと直感したからだ。

「日本テレビの天皇」

当時、周囲からそんなふうに呼ばれていたと自嘲気味に五味は語る。

「確かにそれくらい天狗になってましたね。自分に絶対的に自信がありました」

五味は三十代の日テレの作り手の中で数少ない“エリート”だった。八七年に広告業界から転身し中途採用されると翌年には『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』を手がけ大ヒット。さらに『マジカル頭脳パワー!!』も生み出し、日テレのエースのような存在になっていた。このとき、五味は三六歳。何をやっても“当たる”という確信のようなものすらあった。

「一応、事前に決めた構成表とか台本はあったんです。それは、もうちょっと武道館で歌う人の時間が多かったんですよ。でも、“あの中継”のほうがおもしろいから武道館の出演者の歌とかを無視して長く中継しちゃったんです。なんせ“天皇”だから、誰の言うことも聞かない(笑)。というか、予定調和をぶち壊さなきゃいけない。その場で台本が作られていくような感じです。だから武道館は大混乱だったでしょうね(笑)」

そう、一九九二年八月二九日~三〇日に放送された『24時間テレビ』は大幅にリニューアルされたのだ。このリニューアルこそが反撃の狼煙の象徴だった。

のちに日本テレビ社長にまで登りつめた萩原敏雄は、当時、病気で入院中だったが、その放送を見て驚いたという。

「あれは、前代未聞と言っていいくらいのものすごいリニューアル。あの頃の日テレの試みの中でいちばん評価していいと思います。それまでどっちかっていうと『24時間テレビ』は“お荷物”。その日だけは視聴率は諦めるというような番組だった。立派な番組だったかもしれないけど、ものすごく多くの人が喜んだり楽しんだりはしてなかったはずの『24時間テレビ』を、同じチャリティー趣旨のままで多くの人が見る番組に作り変えた。趣旨を変えずにそれをやり遂げたことがすごいんですよ」

『24時間テレビ』は、その前年の九一年、史上最低視聴率を叩き出してしまっていた。

開始から十四年、もともとチャリティーというとっつきにくいテーマであるのに加え、マンネリ感が充満していた。

一方、フジテレビ版『24時間テレビ』である『1億人のテレビ夢列島』は逆にフジテレビの好調を証明するように成功が続いていた。元々は『24時間テレビ』をパロディーにしたもの。日テレがチャリティーなら、フジテレビは「笑い」を武器にした。始まるとすぐに“本家”を超える人気番組になった。

そして、『24時間テレビ』が最低視聴率に沈んだ九一年、皮肉にも『夢列島』の盛り上がりは最高潮に達した。二日目の午後に放送されたビートたけし、タモリ、明石家さんまの「BIG3」が揃ったコーナーはそれを象徴していた。

さんまが買ったばかりの新車で「車庫入れ」をしようという企画。嫌がるさんまのもとに、さんまの愛車・レンジローバーが登場する。すかさずたけしは隙を見て、レンジローバーに乗り込むと、「誰かヤツを止めなさい!」とさんまの悲鳴が鳴り響く中、車をブロック塀に躊躇なくぶつけ、ボコボコにしたのだ。いまのテレビではできない過激な内容に視聴者は歓喜し、“伝説”となった。

フジテレビらしいお祭り騒ぎと、日本テレビの生真面目さ。当時の視聴者は断然、前者を支持した。楽しくなければ、テレビじゃない、と。

そもそも『24時間テレビ 愛は地球を救う』が始まったのは、一九七八年。日本テレビの開局二五周年記念の番組として放送された。その発想のベースになったのはアメリカのチャリティー番組『レイバー・デイ・テレソン』だという。だが、内容自体は、七二年に『11PM』で放送されギャラクシー賞を受賞した「世界の福祉特集」の拡大版という位置づけだった。

「一体テレビにできることは何でしょう」

日本のテレビ誕生から二五年。テレビの社会的役割を今一度問いかけ、見直そうという思いもあった。日本テレビをキー局に、全国二九の系列局が参加する24時間の生放送は、日本国内はもちろん、世界でも初めての試みだったという。二五年で培ってきた番組づくりのノウハウを総動員して、「寝たきり老人にお風呂を! 身障者にリフト付きバスと車椅子を!」と募金を呼びかけた。

萩原敏雄は、この時、“欽ちゃん番”として、司会の萩本欽一に張り付いた。入社以来、演芸畑でディレクターをしていた萩原は、萩本に信頼されていた数少ない日テレ社員だったからだ。萩本ともにチャリティー・パーソナリティを務めたのは大竹しのぶだった。司会の萩本と大竹を間近で見ていた萩原は言う。

「よく偽善だとか批判されたりしましたけど、欽ちゃんは本当にボランティア精神がありましたよ。ちゃんと福祉を考えてる人です。大竹しのぶさんも素晴らしかった。欽ちゃんと大竹さんのコンビは大変なものでしたね。感動しました。だって、あの人たちが視聴者からかかってくる電話にでるのは、テレビに映ってる時だけでいいんですよ。テレビに映ってない真夜中は寝てていいんですよ。それなのにあの2人はずーっと起きて電話に出てたんです。ああ、これはホンモノだと思いましたねえ」

出演者たちの“本気”が画面を通して伝わったのだろう。番組が当初目標に掲げていた募金金額は四億円だったが、最終的に視聴者から集まったのはその約三倍にあたる一一億九千万円だった。

番組の発案者はプロデューサーとなる都築忠彦。彼はチーフプロデューサーの勝田建と当時第一制作局長だった井原高忠らと綿密な計画を立て、タイムテーブルを作っていった。その上で、最後の承認を得るために会長(当時)の小林與三次にプレゼンした。

「おもしろいことを考えるなあ」

満足そうな小林だったが、「ひとつだけ気になることがある」と神妙な表情になって、こう続けた。

「この企画は一回やったら日テレが潰れるまで何十年も何百年もやめられない。本来、チャリティーとはそういうもんだ。もし途中でやめたら世間から『なぜ、日テレはやめたんだ』と猛攻撃にあうのは間違いない。募金もおそらくかなり集まるからな。日テレが途中でやめれば社会的責任を途中で放棄したとみなされる」(※1)

彼らはその言葉を聞いて呆然とした。そこまで考えていなかった。

「やってもいいけどその覚悟はあるのかね。オレや君達が死んでも続けなきゃいけない企画だよ。これは」(※1)

実際、開始当初は大きな話題を呼び、視聴率も平均一五・六%と大成功したこの番組も、回を追うごとに注目度は下がり続けた。前述の通り九一年には六・六%にまで低迷した。

けれど、小林の“予言”どおり、やめるわけにはいかなかった。だったら、番組を続けた上で、中身を変えなければならない。

チャリティやでェ

「お前、今までやってきた番組で一番高い制作費、いくら?」

ある時、小杉善信は、編成部長の加藤光男にそう尋ねられた。小杉が答えると、加藤はその数倍にのぼる数字を提示して言った。

「これくらいの制作費の番組をやってみたくないか?」

「そりゃあ、やりたいです!」

当然の答えだった。

「やる?」となおも問う加藤にしびれをきらせて小杉は「なんですか?」と訊いた。

「『24時間テレビ』」

小杉は、椅子から転げそうになった。

『24時間テレビ』は聖域だ。十四年の間に培われた生真面目なイメージを覆すのは並大抵のことではない。難題だ。番組が大きすぎて簡単に手を入れられるものではない。それを変えてみろ、と言われ小杉は愕然となった。

制作指揮を務めた高橋進と編成部長の加藤が話し合い、プロデューサーに選んだのは、当時三八歳の小杉善信と、四〇歳になったばかりの渡辺弘だったのだ。

彼らは、総合演出の一人に菅原正豊を指名する。制作会社「ハウフルス」の“代表取締役演出家”だ。それまで『24時間テレビ』の総合演出は、常に日本テレビの社員ディレクターが担当していた。外部の人間が務めたことはない。小杉とは篤い信頼関係で結ばれていたとはいえ、異例中の異例の起用だった。

「『24時間テレビ』を変えるという強い意志のあらわれだった」(※2)

小杉はそう述懐している。

菅原の起用同様、『24時間テレビ』が「変わる」というシンボルになったのはメインパーソナリティの人選だった。

なんとダウンタウンが抜擢されたのだ。

当時のダウンタウンと言えば、今とは比べ物にならないくらいヤンチャなイメージだった。九一年一二月に『ダウンタウンのごっつええ感じ』が始まったばかり。若い世代には絶大な人気を誇っていたが、世間的な知名度が高いわけではなかった。天下を獲るために戦っている最中だ。『ガキの使いやあらへんで!』では、芸人はもちろん俳優からミュージシャンも槍玉にあげ毒舌を吐き、時折、ゴールデンの特番などに出演すると大御所タレントの頭を臆せず叩いたりしていた。だから“大人”から見ると傍若無人にも思えてしまう若者たちだった。もちろん、チャリティーとは縁遠い存在だ。

当然のように、局の上層部からは猛反対にあった。

「同じ若い芸人だったら、ウッチャンナンチャンのほうがいいのではないか」

確かに、既に『やるならやらねば!』など家族で安心して楽しめる人気番組を持っていたウッチャンナンチャンならチャリティー番組もそつなくこなしてくれる安心感はあった。だが、それでは意味がない。インパクトに欠ける。ダウンタウンでなければ、「変える」という意志が視聴者には伝わらない。

ダウンタウンの起用は、局上層部だけではなく、所属事務所や本人たちすら懐疑的だったが、小杉と渡辺は、粘り強く説得と交渉を続け、遂に実現にこぎつけたのだ。

ポスターにあの黄色いTシャツを着たダウンタウンが収まったとき、小杉は身震いしたという。

これで、変われる!

だが、このポスターにキャッチコピーをつけようとすると、立ち止まらざるを得なかった。いくらダウンタウンを起用したからといっても、チャリティーが番組の主題であることは変わらない。一方で、「愛」やら「感動」やらを押し出したコピーにしてしまうと、ダウンタウンが悪い意味で浮いてしまう。チャリティーとダウンタウンというそれぞれの個性を損なわず、響き合うコピーはなかなか閃かなかった。行き詰まった中で思いついたのは菅原だった。

「チャリティーやでェ」

それは、「番組らしさ」と「ダウンタウンらしさ」をそのまま言葉にした軽妙で絶妙なコピーだった(※3)。このコピーができたとき、小杉は番組の成功を確信したという。

小杉たちは、何度となくブレーンストーミングを重ねた。時には昼に会議を始めて終わる頃には翌朝になっていたという。

そこで出た結論は「原点回帰」だった。

この頃の『24時間テレビ』は、いつしか「2時間特番×12」というような構成になっていた。つまり、それぞれのクオリティを重視するあまり、ドキュメンタリーやアニメ、バラエティ企画の2時間特番がぶつ切りで放送されているだけで、実質的にひとつの番組にはなっていなかった。そこで「24時間×1番組」の生放送のイベントという原点に戻ろう、と考えたのだ。

リニューアルの大きな柱は二つあった。

そのひとつは「愛の歌声は地球を救う」と題されたとおり「音楽」だ。

「武道館をカラオケの殿堂にしよう」

そんな菅原のアイデアで、伝統ある日本武道館にミラーボールが軽薄な光を放ちながら回った。半ばシャレだった。

「カラオケを聴いて募金する気になるのか」

そんな批判も聞こえてきたが、生で24時間楽しんでもらうためには肩の力を抜いたほうがいいはずだという思いのほうが強かった。

武道館に集まった出演者たちが思い出の歌を歌う「有名人歌声チャリティー」という通し企画が決まった。歌うのは、最初から決められたメンバーだけではない。出演者たちが生放送中に交流のある芸能人に電話をかけて突然呼び出す。それに応じやってきた芸能人たちも歌う。誰が来て、何を歌うかは、その時になってみないとわからない。普段カメラの前で歌うことのない有名人も歌声を披露した。長時間の生放送ならではの何が起こるかわからないワクワク感あふれる企画だった。

さらに、生放送中に視聴者から歌詞を募集し、それを元に谷村新司が作詞し、加山雄三が作曲して24時間の中でオリジナル曲を作るという企画も決まった。これらの企画は、菅原がディレクター、小杉がプロデューサーとして立ち上げヒットしていた『夜も一生けんめい。』の経験がベースになっていた。

このように菅原が大枠のプランを考え、それを元にひとつひとつのディテールを五味が詰めていくというのが基本的な役割分担だった。

24時間チャリティーマラソン

そしてもうひとつの柱となったのが「24時間チャリティーマラソン」だ。いまや定番となったこの企画もこの年から始まったものだ。

だが、この企画の発案はプロデューサーの小杉や渡辺でも、総合演出の菅原や五味でもない。小杉は『マジカル頭脳パワー!!』や『いつみても波瀾万丈』など当時の日本テレビの人気番組のレギュラー出演者だった間寛平が番組に欠かせないと考え、当時の寛平のマネージャー・比企啓之に話を持ちかけた。

「寛平さんで何かいい企画ないかなあ」

その問いかけに比企は目を光らせた。

「どうですか、番組の中で、スタートからエンディングまでの24時間、うちの寛平を走らせたら」

思わぬ提案に小杉は一瞬戸惑った。だが、すぐに身を乗り出した。

「おもしろい!」

けれど、そんなこと本当に可能なのだろうか。不安がる小杉に比企は「大丈夫だ」と自信満々に答えた。

実は間寛平は八八年から、「スパルタスロン」というマラソンレースに挑戦していた。このレースはアテネとスパルタの間の二四六キロを三六時間以内で走るというもの。しかも、途中には標高一二〇〇メートルを超えるところや、舗装されていない砂利道や山道などもあるマラソンとしてはもっとも過酷な条件のひとつのレースだった。八八年、九〇年に挑戦した際は、無念の途中リタイヤに終わったものの、九一年の挑戦で三五時間四秒のタイムで見事完走。日本人参加者の中では二位、全参加者の中でも二〇位という好成績を記録していたため、できるという確信があったのだ。また、この年、六六〇キロを一週間で走破するというスペインのレースに向けて練習を重ねていたからコンディションはいい。そのレースが諸事情で中止になってしまったというタイミングでもあった。

「24時間で200キロぐらいだったら何ていうことはないですよ」

比企は自分のことのように胸を張った。

「わかった。なら、その企画、すぐに通すから」(※4)

本人が不在のまま、この歴史的な企画が決まっていったのだ。

「勝手に決めてもらっても困るがな」

比企に「ごっつい仕事取ってきましたよ」と喜々として報告され、寛平は頭を抱えた。

「ギリシャと東京いうのは気候も違うし、真夏の日本で200キロ走れるか。おれ、自信ないわ」(※4)

そんな不安をよそにこのマラソン企画の火蓋はもう切って落とされていたのだ。

「チャリティーだからって逃げないようにしよう」

五味は繰り返し行われた会議の中で何度もそう言った。チャリティーを言い訳にするのは絶対に嫌だった。一方、渡辺は当初「チャリティー」という“縛り”を窮屈に感じていた。フジテレビの『テレビ夢列島』はそんな縛りがないからこそ、あんなにも自由で楽しいものができる。羨ましいと思っていた。けれど、会議を進めていくうちにそうではないと考え方が変わっていったと渡辺は述懐する。

「やっていくうちにチャリティーという縛りがあったほうがやりやすいということに気づいたんです。チャリティーはお笑いやスポーツ、アイドルとかとも結びつく。それを軸にすればフジにないものができるんじゃないかと」

五味はそのために「チャリティーを面白く見せて、この先も見たいと思わせるものにしなければいけない」と考えた。明るいエンターテイメントを通してチャリティーを考えるきっかけにしてもらえばいいのだと。

本番中、日本テレビの本部で番組の進行を担っていた五味は、予想以上にマラソンの画が強いことに驚いた。間寛平が走っている、それだけの画だが、視聴者の目が釘付けになっていることを感じた。何よりも自分が見たいと思った。だから、五味は当初の構成案を無視し、準備していたものを飛ばして、マラソンの中継を何度となく映した。冒頭で述べた「ある中継」とはこのことだ。

しかし、その盛り上がりは思わぬ弊害を呼んだ。この年は間寛平が走るコースを事前に公表していたため、街頭に人が溢れてしまったのだ。寛平が走るスペースも確保するのが難しい状況にもなった。

遂には警察から「道路がひどい状況になっているから、もう映すな。即刻中止しろ!」という警告まできてしまうほどだった。

だが、寛平は死ぬ思いで走っている。それを映さないわけにはいかない。五味は辞表も覚悟してカメラをスイッチングしながら叫んだ。

「映すぞー! いけーー!」

三五歳の吉川圭三はこの日、日本テレビGスタジオ担当の総合ディレクターとして、深夜パート「所&嘉門の超連続替え歌グランプリ」などを担当した。所ジョージと田中義剛司会で、嘉門達夫(現・嘉門タツオ)やなぎら健壱らが、替え歌を百曲歌いきるというものだ。このコーナーは深夜の放送にもかかわらず、視聴率約二二%を獲得した。

この年、日本テレビに中途入社し、昨年、『日本テレビの「1秒戦略」』を上梓した岩崎達也は語る。

「日本テレビは代々、クリエイターたちの仲が良いんです。私見ですがそれは、『24時間テレビ』が大きいんじゃないかと思います。あそこで同じ時期に活躍しているクリエイター同士が集まる。そこで作り方の共有と差別化ができるんです」

実際、これまで挙げた者たち以外にも、各コーナーに菅賢治、雨宮秀彦、毛利忍ら様々なディレクターたちが参加している。翌年の深夜コーナーは土屋敏男が担当した。出川哲朗に人間水車で拷問まがいのことをして、生放送中に上層部から「即刻やめさせろ!」と激怒されたという。

歴代最高視聴率

番組終盤、視聴者から募集したフレーズを基にした“愛の歌”「サライ」が完成した。

武道館のエンディングの舞台にはメインパーソナリティのダウンタウン、チャリティーパーソナリティーとして「紅の豚号」に乗り込み生放送中に各地を飛び回った観月ありさ、司会の楠田枝里子と徳光和夫、「サライ」を作り上げた加山雄三、谷村新司はもちろん、和田アキ子、萩本欽一、板東英二、逸見政孝、そして長嶋茂雄ら、日本テレビの主役たちが並び立った。そして全員でできたばかりの歌を歌った。

ダウンタウンの目には涙が光っているようにも見えた。

「うわ、これがスターになっていくって瞬間なんだろうな」(※5)

菅賢治はそんな光景を見て実感し、それを間近で目撃できた幸福感を噛み締めていた。

ダウンタウンを「泣かせよう」と思っていた渡辺にとっては、彼らがハッキリと涙を落とすシーンは撮れなかったが、満足だった。しかも、翌日、思わず歓喜の声を上げることになる。

ダウンタウンがレギュラーを務めているフジテレビ『笑っていいとも!』の生放送で彼らが「サライ」を口ずさんだのだ。

番組終了後、みんなが高揚していた。かつてない番組ができた。そんな確信があった。

五味も日本テレビ本部から武道館に駆けつけた。それぞれの持ち場で声をからしたメンバーたちが、打ち上げ会場となった「レストラン武道」に集まった。

そして、顔を見合わせた瞬間、五味も小杉も菅原も渡辺も、みんな涙を抑えることができなくなった。

「あの日が、テレビマン人生の中でいちばん長い日でしたね」

五味は青春時代を懐かしむように微笑んだ。準備を含めて約三一時間。それぞれが死力を尽くした。

翌日発表された視聴率は、一七・二%。前年の史上最低から『24時間テレビ』歴代最高の記録を叩き出したのだ。瞬間最高視聴率も三七・七%。大成功だった。

そんな生放送中、這い回りながら演出をしていた五味を背後から見守っていた人物がいる。

氏家齊一郎である。

この放送の少し前、日本テレビに復帰し副社長になったばかりだった。数ヶ月後、社長に昇格することになる氏家は、その光景を見て確信したに違いない。テレビ局にとってもっとも重要なのは、番組の演出を担うクリエイターであることを。氏家はその後、クリエイターを第一とする人事施策を次々と実施していくこととなる。

「終わった……」

「サライ」の間奏中、映し出された間寛平は静かにそうつぶやいた。疲労困憊で座っているのもツラそうな表情だ。そう、寛平の最初の24時間マラソン挑戦は失敗に終わったのだ。いくつも失敗の原因はあった。初めての挑戦でどれだけの準備が必要か誰もわからなかったこと。予想以上の猛暑だったこと。そして、街頭に人があふれ走ることすらままならない状態だったこと……。

無念の途中リタイアだった。

すべて成功とはいかなかった。けれどそれは、その頃の日本テレビを象徴しているようだった。フジテレビの背中は微かに見えてきた。追い抜くために、新しい挑戦をする。一度に全部がうまくいくわけではない。しかし、その光明は確かにあった。

「逆襲」するための準備は整った。リベンジのスタートの火蓋が切られたのだ。

あとは死に物狂いで走りきるだけだ――。

**

この『24時間テレビ』リニューアルの成功には伏線がある。それが、八八年に発足され高橋進が指揮した「クイズプロジェクト」だ。そのメンバーは、小杉善信、渡辺弘、吉川圭三、五味一男。そして、外部から協力した菅原正豊も重要な役割を果たしていた。

そう、九二年の『24時間テレビ』の主要メンバーそのものだ。

つまり『24時間テレビ』リニューアルとは、「クイズプロジェクト」の成果、集大成だったのだ。それでは、一体、日本テレビの逆襲の始まりといえる「クイズプロジェクト」とは何だったのだろうか。

(以上、『全部やれ。 日本テレビ えげつない勝ち方』「序章」より)

(引用)

※1 吉川圭三「メディア都市伝説」(水道橋博士のメルマ旬報)

※2 『新潮45』2017年7月号

※3 「産経新聞」1997年8月14日夕刊

※4 間寛平『ほな、走ろうかぁ―間寛平、走りつづけるぼくの人生』(日本テレビ放送網)

※5 菅賢治『笑う仕事術』(ワニブックス)

ライター。テレビっ子

現在『水道橋博士のメルマ旬報』『日刊サイゾー』『週刊SPA!』『日刊ゲンダイ』などにテレビに関するコラムを連載中。著書に戸部田誠名義で『タモリ学 タモリにとって「タモリ」とは何か?』(イースト・プレス)、『有吉弘行のツイッターのフォロワーはなぜ300万人もいるのか 絶望を笑いに変える芸人たちの生き方』、『コントに捧げた内村光良の怒り 続・絶望を笑いに変える芸人たちの生き方』(コア新書)、『1989年のテレビっ子』(双葉社)、『笑福亭鶴瓶論』(新潮社)など。共著で『大人のSMAP論』がある。

てれびのスキマの最近の記事