それでもまだ貴方は「冷やし中華」を許すのか?
今年も憂鬱な季節がやってきた
私は「冷やし中華」が嫌いである。フードジャーナリストという仕事を始めてからというもの、色々な場所で冷やし中華嫌いを公言してきたが、今では冷やし中華嫌いの第一人者くらいの言われようである。インターネットで「山路力也」と検索すると、検索候補に「冷やし中華」と出て来るほどである。私の冷やし中華嫌いは生半可なものではない、筋金入りなのだ。
「冷やし中華」は夏の風物詩として必ずといっていいほど名前が挙がる食べ物だが、街の中華屋さんなどで「冷やし中華はじめました」の文字をみるたびに憂鬱になる。冷やし中華はじめなくて良い、と思う。あるいは始めても良いけれど、私の知らないところでひっそりと始めてくれ、と思う。そして私の知らないところで早く終わってくれと願う。何ならそのまま永遠に終わってしまってくれて良いとも思う。
「なぜ冷やし中華が嫌いなのか」と人は問う。まず、その質問の設定自体が「冷やし中華は万人が好むものであるのに、貴方はなぜ嫌いなのか」という前提に立っているのが気に食わぬ。人間は直感的に目の前のモノが好きか嫌いかを瞬時に判断する生き物だ。嫌いなことに理由などないし、あったとしても嫌いなのだから本人にとってはその理由を知る必要もない。嫌いなものは嫌いなのだ。
しかしそれではフードジャーナリストとしてその責を果たしたとは言い難く、やはりこの憤りにも近い感情を抑えて、つとめて冷静に「冷やし中華」の問題点をここで明確に提示したいと思う。
私が「冷やし中華」を許せない理由
「冷やし中華」を食べた時のことをまずは思い出して頂きたい。その冷やし中華は冷たいだろうか。ヌルくはなかっただろうか。「冷やし」と名乗っていながら、自ら冷えてもいなければ、食べ手を冷すつもりもないその中途半端な姿勢に納得がいかない。
世の中には他にも「冷やし」と名乗っている料理が多く存在する。例えば山形のご当地ラーメンである「冷やしラーメン」には出汁を凍らせた氷が入るし、「冷やむぎ」にも氷が添えられて麺はキンキンに冷えている。さらに懐かしい「冷やしあめ」は飲めば夏の暑い日差しで火照った身体を優しく冷してくれる。全力で冷そうとしている他の「冷やし料理」たちに対して、冷やし中華のヌルい態度は実に不誠実で怠慢だ。
冷たいものを冷たく出すというのは料理の基本だが、それが守られていないということは、そもそも「冷やし中華は冷たい料理ではない」ということか、もしくは「料理人が手抜きをしている」かのいずれかだ。生ビールのジョッキを冷凍庫で冷した方が旨いように、冷やし中華の皿もしっかりと冷しておくべきだと思うが、一般的にそのような方針が貫かれている冷やし中華は非常に少ない。麺も氷水で締めるべきだし、具材の一つ一つもそれぞれ冷蔵庫から盛りつけのタイミングで出すべきだし、かけるタレもキンキンに冷しておくべきだと考えるが、それも非常に少数派だ。
そして具材に関しても、料理としての独創性や思想、さらには機能性が微塵も感じられない。どの店も横並びでチャーシューもしくはハム、キュウリ、錦糸卵、場合によっては紅生姜など、赤、緑、黄色の色合いのみで選ばれたこれらの具材たち。このチョイスそのものは否定しないが、どの店もそこから抜け出そうとしない現状に料理人の怠慢を見る。
またそれらの具材すべてが均一のサイズで放射状に整然と並べられていることにも憤りを隠せない。具材を切る場合、味の入り方や食感などを考慮して、それぞれ適した切り方というものがある。その観点からしてもチャーシューとキュウリ、あるいは卵がまったく同じ切り方やサイズのわけがあるまい。
さらに、あのタレのようなものは何なのだ。ドレッシング的なポジションとしては多過ぎるし、スープ的なポジションとしては少な過ぎる。飲ませたいのか飲ませたくないのかが分からない。濃度や粘度を考えても決して水で締めた麺と馴染むとは思えない。醤油、酢、砂糖などストレートな調味料の味しかしない、素材感ゼロのタレの味わいに無力感すら覚える。
これを読まれた方は「何を怒っているのか」「冷やし中華とはそんなもんだろう」と思われたに違いない。そうなのだ、その「冷やし中華なんてそんなもんだろう」という蔓延した暗黙の了解が、きっと私は許せないのだ。作り手である料理人も、食べ手である客も、心のどこかで「まぁこんなもん」という折り合いをつけ、完全に思考停止状態に陥っているのが不思議で仕方がない。
冷たいものは冷たく出すべきではないのか。具材はその具材に合った切り方や大きさにすべきではないのか。タレを麺と絡めさせたいのなら油分を補ったり粘度を上げるべきだろうし、飲ませたいのならしっかりと出汁をひいてもっと量を増やすべきではないのか。私にとって冷やし中華という料理は疑問だらけだ。それは何の疑問も感じず作り続けている料理人や、それを是として食べ続けている客に対しても同様だ。
料理として正しい「冷やし中華」を食べたい
今一度落ち着いて考えてみて欲しい。貴方はその冷やし中華を本当に美味しいと思って食べているのだろうか。妥協や習慣で食べてはいないか。もちろん、子供の頃からずっと食べていたお店の冷やし中華がそういうものであるならば、貴方がそれを美味しいと感じることは自然なことである。しかし「夏が来たから冷やし中華でも食べようか」とパッと入った店の冷やし中華が前述したようなものだった時、貴方はそれを無条件で受け容れてはいまいか。貴方はなぜ冷やし中華をそこまで甘やかし、冷やし中華を許すのか。私はそれを許せるほど出来た大人ではない。
それでもまだ私の考えに共感出来ない人は、ぜひ銀座にある老舗「萬福」の冷やし中華を食べて頂きたい。この冷やし中華は冷たい料理として実に正しい。器もしっかりと冷してあって、麺もキュッと冷たい。この状態で出すことにどれだけ料理人が神経を注いでいるかが分かり嬉しくなる。それでいて見た目には奇抜なことをせずに、誰もが郷愁を感じるる昔ながらの冷やし中華の範疇に納めてあるのは、やはり三代続く老舗ならではの表現方法ではないかと思う。さらには夏だけでなく、通年で冷やし中華を提供しているのも自信の現れと言えるだろう。
さらにもう一軒お勧めは、千葉市にある新潟ラーメンの名店「蓬来軒」の冷やし中華だ。この店の冷やし中華は私が考える冷やし中華の欠点をすべてカバーしているばかりか、各パーツが磨き上げられていて一つの麺料理として完成しているのである。誰も冷やし中華については、別に旨いとも不味いとも思わずに「まぁこんなもんだろ」というある種の妥協と予定調和の中で食していると思うが、この店の冷やし中華を食べたら冷やし中華の概念が変わると断言する。きっと貴方は今まで食べていた冷やし中華は一体何だったのだろうと思うに違いない。
冷やし中華は作り手が本気で向き合えばもっと美味しくなる。これらの冷やし中華を食べて私がたどりついた結論だ。逆にいえば、世の中には本気ではない冷やし中華があまりにも多い。私はフードジャーナリストとしても一人の食べ手としても、この状況がどうしても許せない。どうせ食べるのなら美味しいものを食べたい、料理人の思いや愛情のこもったものを食べたいというのが、食べ手としての素直な思いだろう。ならば、食べ手も本気で冷やし中華に向き合って欲しい。いつまでも冷やし中華を甘やかしてはいけない。