Yahoo!ニュース

織田信長が目指した天下は当初『全国制覇』ではなかった!?

歴ブロ歴史の探求者

織田信長が岐阜城を拠点とした頃に考えた天下布武のスローガン。

天下に武を布くことから「武力で全国平定するぞ!」と解釈ができますが、近年では中国の史書からの引用で七徳の武という為政者の徳を説く内容であったとも言われています。

天下も一般的に全国と考えがちですが【天下=全国】ではないようです。

そこで今回は織田信長の目指した天下を考えていきます。

織田信長が考えていた天下

これまで天下布武は信長による「武力による天下統一(全国制覇)」と考えられてきました。しかし、戦国時代では【天下=天皇や将軍のいる都やその周辺の五畿内(山城・大和・摂津・和泉・河内)】を指しています。

実際に独自の将軍を立てて権勢を振るっていた三好長慶も全国ではなく畿内周辺を支配地域においていました。

そのため信長も1568年時点では、足利義昭を奉じて将軍になってもらい「室町幕府の再興」という大義名分のもと諸勢力を従えさせたかったと考えていたはずです。

足利義昭の追放と室町幕府滅亡

将軍・義昭を擁立して権勢を振るっていた信長でしたが、次第に両者の関係が拗れて対立するようになりました。

そして、とうとう義昭は反旗を翻しますが、信長は諸勢力を抑えるために義昭の存在は必要と考え和解に乗り出します。

しかし、義昭は拒絶。仕方がなく信長は二条城を攻めて追い詰め和解を成立させますが、義昭が再び兵を集めて挙兵したため信長も見限るしかなく、義昭を京から追放しました。

織田信長と朝廷の関係

応仁の乱以降の室町幕府は権威失墜のため焼け野原になった京の治安を維持することが出来ていませんでした。

京に近い安土に壮大な城を築きその影響力を見せつけた信長のおかげで京の治安も安定させることに成功しています。

朝廷に対する様々な功績から従三位権大納言が与えられ、次いで右近衛大将にも命ぜられました。

これらは源頼朝が同じ役職を任じられた先例にならったものと考えられており、それを信長に与えたという事は朝廷が正式に幕府の後継者として認められた瞬間でもあります。

こうして、将軍の権威を利用できなくなった信長は朝廷に目をつけ始めます。

畿内統一から全国統一へ…

朝廷からのお墨付きをもらったことによって天下を支配する大義名分を手に入れましたが、これまでの反信長勢力が従うわけではありません。

今度の天下布武は将軍を奉じ畿内を抑えるだけじゃ実現できず、北陸には一向宗と上杉謙信、西には毛利輝元と本願寺が反対勢力として新たに反信長包囲網が形成されていました。

これを機に織田信長は反信長勢力を攻略していくことになり、目標が【天下=全国統一】となっていきます。

1580年頃に柴田勝家が調略中だった人物に送った書状の中に「天下統一の御望の面々が信長への服属を望めば自分が取り次ぐ」と伝えた文章があります。

この頃は畿内周辺を統治下に置いていたので、天下統一はどう考えても畿内周辺ではなく、全国統一であることが推測できます。

本能寺の変へ

1578年に信長は、右大臣・右近衛大将の役職を辞任します。

辞めた理由は明らかになっておらず真意は分かっていませんが、「従来のしがらみを取り払い信長による独自の支配力を強めるためでは?」とも言われています。

そして、1582年6月2日に本能寺の変が起こります。信長は天下布武を実現することが出来ませんでしたが、その夢は配下であった豊臣秀吉により実現されることになったのです。

歴史の探求者

歴史好きが講じて歴史ブログを運営して約10年。暗記教科であまり好きでないと言う人も少なくないはずです。楽しく分かりやすく歴史を紹介していければと思います。歴史好きはもちろんあまり好きではない人も楽しめるような内容をお届けします。

歴ブロの最近の記事