【戦国こぼれ話】真田信繁は脱出用の抜け穴を作っていた!?そのすべてを徹底してリサーチする!
■今も抜け穴はあるのか?
政財界のトップともなれば、いざというときに備えて執務室に脱出用の抜け穴を設けているのだろうか?いささかテレビの見過ぎのような感じがしないわけではない。
ところが、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後、九度山の真田庵で逼塞していた真田昌幸・信繁父子は、脱出用の抜け穴を作っていたという。信繁は、大坂城にも抜け穴を作っていたといわれている。
この話は本当なのだろうか?
■真田庵近くの「真田の抜け穴」
九度山の真田庵から東に約170メートルほど行った坂道の近くには、昌幸・信繁父子が作った「真田の抜け穴」といわれる場所がある。
穴はちょうど人が入れそうな大きさで、かつて信繁はこの抜け穴を使って大坂城に入ったという。説明版にはそう書かれており、多くの人々が信じていたのだ。
■実は古墳だった「真田の抜け穴」
ところが、昭和29年(1954)に九度山町役場の発掘調査により、抜け穴は4世紀頃の古墳時代後期の古墳であることがわかった。
石積の立穴は古墳の墓道であり、途中に存在する横穴は室屋(棺を安置する場所)だった。現在では、真田古墳と名付けられている。
かつて地元の住民の皆さんの多くは、それが「真田の抜け穴」とマジメに信じていたというから、誠に罪深い話である。
■産湯稲荷神社にもあった「真田の抜け穴」
「真田の抜け穴」の話は、大阪市天王寺区小橋町の産湯稲荷神社にもある。同神社は天正年間における織田信長と大坂本願寺との合戦で焼失したが、のちに再建された。
かつて付近の一帯は高地であったというが、北面に「真田の抜け穴」と称するものがあり、その長さは約50間(約90メートル)あったといわれている。当時の技術力を念頭に置けば、かなりの長い距離であるといえよう。
『大阪府史蹟名勝天然記念物 5巻』によると、明治18年(1885)の洪水によって穴の真ん中付近が陥没し、当時はすべて開通していなかった。
のちに入口を封鎖して、入れないように扉を設けた。戦後、地元の人々は穴が危険であるなどの理由で埋めたといわれている。これが「真田の抜け穴」であったか否か、真偽は不明である。
■安居神社にもあった「真田の抜け穴」
信繁が戦死した安居神社(大阪市天王寺区逢坂之町)の裏手の小高い崖には、人が入れるくらいの穴の大きさの「真田の抜け穴」があった。ところが、今は石積で固められ、その上に稲荷が祀られたので確認ができない。
「真田の抜け穴」と称されるものは、まだまだある。
■三光神社近くの「真田の抜け穴」
三光神社(大阪市天王寺区玉造本町)は「中風厄除け」の神社として有名であるが、慶長19年(1614)の大坂冬の陣では付近に徳川方の前田利常が陣を置いていた。
信繁と前田勢が真田丸で戦った付近の小さな丘は、利常が「加賀宰相」と称されたことにちなんで、「宰相山」と呼ばれている。
三光神社の社殿が所在するやや高地の崖の斜面には、ちょうど人が入れるくらいの大きな穴が空いていた。その穴の坑道は西の方向に10メートルほど進み、そこから南の方向に曲がっている。
『大阪府誌』によると、この穴は信繁が大坂冬の陣で真田丸を築いた際、地下を通じる穴を掘り、大坂城との連絡に使ったと書かれている。現在、残念ながらその穴には鉄格子の蓋がされており、中には入ることは不可能である。
信繁は必要なときに、大坂城まで地下道を通って往来し、豊臣方の諸将と情報交換をしていたといのだろうか。ただし、この地下道が使用されたことは、当時の確実な史料で裏付けることはできない。
■拭い去れない疑問の数々
では、至るところに大坂城まで地下道を作ることによって、どのようなメリットがあったのだろうか。正直なところ、まったく思いつかない。小さな地下道では、少人数の移動ならばよかったであろうが、大人数が移動するには不便であろう。
それだけではなく、ほかにも疑問に感じる理由がある。
当時の土木技術のレベルで、地下道を作るには高度な技術と多大な時間を要したはずである。現代においても、高速道路や地下鉄のトンネル工事などには、高い技術が要求される。工事がいい加減なものであれば、地下道が崩れ落ちる危険性があったはずだ。
■怪しい「真田の抜け穴」
結論を端的に言えば、「真田の抜け穴」の存在は疑わしいといえる。
では、このような「真田の抜け穴」伝説が残ったのには、どういう理由があったのだろうか。おそらく信繁のような優れた武将ならば、地下道を掘るという奇策を用いたと想像したのであろう。
それゆえ、「抜け穴」と思しきものを発見すると、根拠もなく信繁が掘った「真田の抜け穴」と命名し、まことしやかに後世に伝わったと見るべきだ。