【「麒麟がくる」コラム】明智光秀が築城した坂本城は、フロイスも唸った驚くほどの名城だった!?
■ルイス・フロイスが唸った坂本城
大河ドラマ「麒麟がくる」第33回では、元亀2年(1571)の比叡山焼き討ちが取り上げられていた。その後、明智光秀は坂本城(滋賀県大津市)を築くと、それを一見したイエズス会のルイス・フロイスはあまりの豪華さに唸ったという。
坂本城とは、いったいどんな城だったのか?
■志賀郡を与えられた光秀
比叡山の焼き討ち後、織田信長は直ちに家臣に恩賞を与えた。佐久間信盛は湖南地方の野洲郡、粟田郡を与えられ、六角氏の旧臣である進藤、青地、山岡の3氏を新たに与力として付けられた。これにより、信長は美濃から近江を経て京都に至る経路を確保できたことになる。
光秀に対しては、志賀郡が与えられた。志賀郡は現在の大津市域を占めており、比叡山の東麓に位置していた。光秀が居城である坂本城を築いたのは、比叡山麓の坂本だった。
■坂本の土地柄
坂本は山中越えによって京都の白川に至るという、交通の要衝地だった。それは陸路だけでなく、琵琶湖の湖上ネットワークを生かした、水上交通の起点でもあったのである。
とりわけ近くの堅田は自治が行われており、堅田船という船団を保有していた。ルイス・フロイスは、堅田を「甚だ富裕なる町」と評した(『日本史』)。
■光秀に付けられた与力
信長からは光秀に対しても、近江や山城に本拠を持つ有力な与力が付けられていた。
与力となった磯谷氏は山中(滋賀県大津市)、渡邊氏は田中(京都市左京区)、山本氏は岩倉(同上)と、山中越えのルートに本拠を構える土豪ばかりで、彼らは光秀と入魂の吉田兼見の親類でもあった。
高野(京都市左京区)に本拠を持つ佐竹氏も、この頃に光秀の与力になったと考えられる。こうして光秀は。家臣団を充実させたのである。
■坂本城の記録
光秀が築いた坂本城の記録は、『兼見卿記』元亀3年(1572)閏正月1日条で確認できる。この日は雪が降っていたが、坂本城の普請が行われた。
『同』同年12月24日条によると、坂本城には天主(天守)が築かれており、兼見は大変驚いたという。ルイス・フロイスの『日本史』では次のとおり、坂本城が豪壮華麗で安土城(滋賀県近江八幡市)に次ぐ名城と高く評価されている。
明智は、都から4レーグァ(1レーグァは、約4~6.6km)ほど離れ、比叡山に近く、近江国の25レーグァもあるかの大湖のほとりにある坂本と呼ばれる地に、邸宅と城砦を築いたが、それは日本人にとって豪壮華麗なもので、信長が安土山に建てたものにつぎ、この明智の城ほど有名なものは天下にないほどであった。
■発掘された遺物の数々
天正6年(1578)1月、堺の豪商で茶人の津田宗及は、坂本城で催された茶会に出席した。その後、宗及は安土城に向かったが、坂本城内から船に乗って、琵琶湖を利用した。
また、近年の発掘調査により、中国から輸入されたと考えられる青磁、青白磁、白磁などのほか、大量の瓦、壺、甕、碗、鉢、擂鉢、天目茶碗、銭貨、鏡、刀装具、鋲などの遺物が発掘された。光秀の高い立場をうかがえる調度品と評価できよう。
光秀は京都にも近い要衝の地を与えられたのだから、信長から厚遇されていたのは間違いない。