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惹かれあうのに触れあえない。「鹿の夢」が結ぶ中年男と若い女の恋。静謐なエロスに胸が震える『心と体と』

杉谷伸子映画ライター
2017(c)INFORG - M&M FILM

眠っている間に同じ夢を見ていることを知った男女が、惹かれあう。

ティーンエイジャーが主人公のファンタジーかと思わせる設定ですが、イルディコー・エニェディ監督の『心と体と』(英題:On Body and Soul)で惹かれあうのは、中年男と若い女。しかも、2人が見るのは「鹿の夢」。鹿はハンガリーでは神の使いとされることもあり、神秘的なものを予感させつつも、どんな物語が繰り広げられるのかイメージしづらい2017年ベルリン映画祭金熊賞受賞作は、静かで美しい大人のためのラブストーリーでした。

口コミで人気の出るタイプの作品だと思っていましたが、アカデミー賞外国語映画賞にノミネートされた作品ということもあってか、初日から満席続出のヒットスタート。配給元によれば、30〜50代の女性を中心に、中年男性の一人客も多いそう。(発音区別符号が表示できないため原題を記載していませんが、邦題と同義)

ハンガリー、ブダペスト郊外の食肉処理場。財務部長エンドレ(ゲーザ・モルチャーニ)は、肉の品質管理者として採用されたマーリア(アレクサンドラ・ボルベーイ)が妙に気になりますが、マーリアはコミュニケーションをとるのが苦手。彼らの初めての会話も気まずい空気になってしまうものの、やがて自分たちが、毎夜、同じ夢を見ていることを知った2人は、急速に心の距離を縮めていくことに…。

2頭の鹿が雪の森を行く、冒頭シーンから息を飲む美しさ。2017(c)INFORG - M&M FILM
2頭の鹿が雪の森を行く、冒頭シーンから息を飲む美しさ。2017(c)INFORG - M&M FILM

そもそも距離のある男女が、どのようにして同じ夢を見ていることを知るのか。

脚本も手がけるエニェディは、職場で起きたある事件がそのきっかけになる展開になるほどと頷かせれば、その事件を通して、職場の人間模様や、性をめぐる葛藤、さらにはエンドレの人となりまでも浮かびあがらせてお見事なのですが、雪と静寂に包まれた森を行く2頭の鹿をとらえた冒頭からして、映像の美しいこと!

夢の中でその鹿として共に過ごしていることを知った2人は、夢で会うことを楽しみにするようになります。彼らが牡鹿と牝鹿として過ごす時間がいかに満ち足りたものであるかは、夢での逢瀬の翌日、2人が交わす数少ない言葉と、高揚した表情だけで伝わってくる。何が起きたかを直接描かない、その抑制の効いた表現がかえってエロスを匂い立たせるのです。

エンドレはマーリアにある提案をする。2017(c)INFORG - M&M FILM
エンドレはマーリアにある提案をする。2017(c)INFORG - M&M FILM

当然、現実世界でもその幸福を分かち合い、恍惚を味わいたい。けれども、人と関わるのが苦手なマーリアにとって、それは至難の業。惹かれあいながらも、現実では触れあえない中年男と若い女の恋は、もどかしさを募らせます。その一方で、初めての恋愛感情に戸惑いながらも、子供のように素直な好奇心で、性愛自主トレに励むマーリアを温かい視線で描いて、微苦笑させると同時に、恋の喜びに輝く彼女の表情の眩しさでこちらまでときめかせる。2人の恋には、人が恋したときに味わうすべての感情を観客に思い出させてくれると言えるほど。

2人のもどかしい恋をとらえた美しい映像と静かなトーンは、エンドレの思慮深さやマーリアの生硬さとも重なり、深い信頼関係があるからこその彼らの間のエロスをいっそう増すのですが、この2人を演じる主演男女優がまた魅力的。

エンドレは色恋から遠ざかって久しいようですが、片腕は不自由でも男として十分に魅力的。年が離れているうえに人間関係が苦手なマーリアに誠実に向き合おうとしつつも、嫉妬もすれば自暴自棄にもなる。観ているほうも思わず胸キュンしてしまう、等身大の大人の男の魅力を素直に素敵だと思わせるゲーザ・モルチャーニは、脚本家の経験もある編集者で、これが演技初体験。そのリアルな存在感は、監督がモルチャーニの個性をエンドレ役にフィットさせたと聞いて納得です。

もう縁がないと思っていた恋のときめきにエンドレの顔も輝く。これが演技デビューのゲーザ・モルチャーニ自身の人間的魅力を引き出した監督の手腕にも感服。2017(c)INFORG - M&M FILM
もう縁がないと思っていた恋のときめきにエンドレの顔も輝く。これが演技デビューのゲーザ・モルチャーニ自身の人間的魅力を引き出した監督の手腕にも感服。2017(c)INFORG - M&M FILM

かたや、マーリア役のアレクサンドラ・ボルベーイは、作品の世界観そのままの澄んだ美しさを湛えつつ、マーリアがコミュニケーションが苦手な理由さえも次第に愛おしくさせていく。

色恋が面倒になっていた中年男と、色恋とは無縁で生きてきた女。食肉処理場に運び込まれる牛と、悠然と森を行く鹿を対比させながら描かれる、風変わりで先の読めない2人の恋が気づかせるのは、愛しあっていてもなお自分の気持ちをちゃんと相手に伝えるのは難しいということ。けれども、愛する人の隣で眠るためには、その難しさを超える努力も勇気も思いやりも必要。『私の20世紀』(’89)でカンヌでカメラドールを受賞した才能の持ち主が18年ぶりに発表した長編は、恋に限らず、何事にも一歩踏み出せずにいる人たちの背中をそっと押してくれる深い人間ドラマでもあります。

『心と体と』

新宿シネマカリテ、池袋シネマ・ロサほかにて公開中。全国順次公開。

配給:サンリス

映画ライター

映画レビューやコラム、インタビューを中心に、『anan』『SCREEN』はじめ、女性誌・情報誌に執筆。インタビュー対象は、ふなっしーからマーティン・スコセッシまで多岐にわたる。日本映画ペンクラブ会員。

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