日本版「司法取引」第1号事件で無罪主張の元会社役員に明日判決
昨年6月に始まり、日産ゴーン事件の捜査で使われた日本版「司法取引」(協議・合意制度)。この制度の適用第1号となったのは、大手火力発電システム事業会社「三菱日立パワーシステムズ(MHPS社)」(本社・横浜市)のタイでの発電所建設を巡って、現地の公務員に1100万タイバーツ(3993万円相当)の賄賂を渡したとする不正競争防止法違反(外国公務員への贈賄)事件だった。起訴された3人のうち、無罪を主張していた内田聡・同社元取締役常務執行役員に対する東京地裁(吉崎佳弥裁判長)の判決が、13日に言い渡される。
本件は、2015年に会社が事件を申告。司法取引の制度ができた後に、特捜部と同社が協議を行い、会社が検察が求める資料を提出し、証人を速やかに出頭させるなどの見返りに、検察は法人としての会社は起訴しない合意が成立した。賄賂の支払いに関わった2人は起訴事実を認め、今年3月、執行猶予付きの有罪判決が言い渡された。
一方、その2人と共謀したとされた内田氏は「共謀は一切していない」と全面的に争ってきた。判決を前に、どういう事件だったのか、何が争われているのかを整理しておく。
きっかけは、現地の役人からの要求
検察・弁護側双方に争いのない事実を元に、経緯を説明する。
この火力発電所は、タイ南部ナコーンシータンマラート県カノム郡のカノム川河口付近に建設され、工事のための資材は同国中部の港ではしけ(バージ)に積み、タグボートで曳航して、工事現場近くに設置された仮桟橋に接岸して陸揚げする海上輸送などの方法で行われることになっていた。
ところが、同国運輸相港湾局の地元支局長Sは、本件仮桟橋は500トン以下の船舶接岸を条件として建設が許可されたものであり、2015年2月17日に接岸予定の3隻のはしけについては、いずれも500トンを超えている、と指摘。「金を払うまではしけを仮桟橋に接岸させない」として、海上警察や地元の自治体トップの分も含めて、2000万タイバーツ(7260万円相当)の現金を要求した。
金銭供与の準備を始めたが…
MHPS社で建設資材の輸送の責任者だったN執行役員兼調達総括部長と、その部下のT調達総括部ロジスティクス部長らが対応を協議。「払うのはやむなし」などとして、担当者をタイに派遣して、現金を用意する準備作業を始めた。
しかしN調達総括部長は、いったんその手続きをストップしたうえで、内田氏に相談することにした。内田氏は、本件を含めた各プラントの設計や建設、さらにプロジェクト全体の管理を行うエンジニアリング本部長を務めていた。
”宿題”が出されて終わった最初の会議
同年2月10日午後4時、同社の本社会議室で内田、N、Tの3氏が集まった。内田氏は、この時初めて、金を要求されていることを知らされた。さらに、それ以前のはしけ接岸の際にも、地元住民や海上警察から「漁船の入出港に支障が出る」などとして、金を要求され、支払っていた事実も告げられた。
この時、内田氏はN氏らに「新たな接岸許可を取り直すことはできないか」「資材を陸上輸送する、もしくははしけを仮桟橋に接岸させずにクレーンなどで陸揚げするなど、他の輸送方法はないか」などを問い質した。これに、N氏らは「新たな許可を取り直すには数ヶ月かかる」「代替手段は見つからない」などと答えた。
それでも、内田氏は金銭供与以外の別の手段を検討するように”宿題”を与えた。N氏らは「分かりました、検討します」と答え、30分ほどで会議は解散した。
ところがその直後、N氏は部下のT氏に「止めていた金の準備を進めておくように」と指示。T氏は、部下のMロジスティクス課長に「内田常務に説明に上がったら、『良きに計らえ』とのことだった」と、事実と異なる説明をし、「金を渡すことで進めてくれ」と指示した。そして、関連会社が振り出した2392万バーツの小切手が、同月13日に現金化された(弁護人によれば、タイの銀行の営業時間は日本時間で午後5時30分まで)。
2度目の会議とその後の展開
13日午後5時30分から、MHPS社本社会議室で、内田、N、Tの3氏による2度目の会議が行われた。それまで、内田氏は現地で賄賂の準備が進んでいることは知らされていない。
この会議で、N氏は前回内田氏から出された”宿題”の回答として「代替手段はありません」と述べ、現地で準備が進んでいることや現金の運搬方法が問題になっていることなどを伝えた。
これに対し内田氏は、大型クレーンを使って荷揚げする方法や、タイに支店を持ち、事情に詳しい関連会社やMHPS社内でタイに精通している知人のXに相談するなど、賄賂を渡す以外の方法を提案した。
この会議の後、内田氏自身がX氏に電話をしたがつながらなかった。タイにいたX氏と連絡がついたのは同月16日朝。現地の状況の調査と対応を依頼した。
しかし、同日夕、X氏から「明日から荷下ろしができるようになった」とメールがあった。内田氏は金が支払われたと理解し、次のように返信した。
「ありがとうございました。現地は私の理解を超えます」
最大の争点は承諾の有無
一番の争点は、内田氏がN氏らの贈賄行為に承諾を与えたか否か、だ。
検察側の主張は
検察側は、2月10日、13日の会議でN氏らから報告を受けた内田氏が、「仕方ないな」と述べたとして、賄賂の支払いの共謀があった、と主張している。
ただ、内田氏が「仕方ないな」と述べた時期について、T氏は10日だったと述べ、N氏は13日と証言するなど、2人の供述は食い違っている。
これについて、検察側は次のように説明している。
〈そもそも(中略)被告人からN及びTに対して「賄賂を供与する」という明確な指示がなされたわけではなく、また、この2回の会議を通じて被告人は供与に反対する言動を一切していないことからすると、「被告人から了承を得た」ものと理解した時点についてのN及びTの受け止め方に微妙な認識のずれがあってもおかしいものではない〉
しかし、N氏らは賄賂を渡すという不正について、わざわざ会社幹部である内田氏のお墨付きを求めたというのだ。N氏は証言で、「私自身で判断してはいけないと思い、プロジェクト全体の責任者に相談した」と述べ、内田氏の了解が得られなければ「(賄賂を払うのは)やめていた」とまで言っている。
その了解がようやく得られた、という極めて重要な出来事があったのがいつの時点か、当事者によって証言が異なっている。その理由もはっきりしないまま「微妙な認識のずれ」で片付けていいのだろうか、という疑問が湧く。
被告・弁護側は…
これに対し内田氏は、N氏らが自分の助言を聞き入れないことに「仕方ねーやつだな」とつぶやいたことはあったかもしれないが、賄賂を渡すことについて「仕方ない」と肯定したことはない、と主張している。
検察側は、N氏らが「賄賂を渡すしかない」と考えた理由について、資材の陸揚げが遅れれば、工事の日程に遅れが出て、納期に影響し、多額の遅延損害金が発生する恐れがあった、と指摘している。
この点についても、内田氏は工期は1年以上残っており、資材の運搬が1,2か月遅れても、作業員や重機を追加投入し、二交代制で集中的な作業を行う「ラッシュワーク」などによって十分挽回できるとして、自身に納期遅れの懸念はなく、贈賄に同意する動機がなかったとしている。
弁護側は、内田氏は2回目の会議の時点でも、賄賂を渡す以外の方法を提案していることを強調し、「被告人が賄賂を渡すことに賛成も承諾もしていなかったことは明白」と無罪を主張している。
刑事責任と倫理の境
こうした被告・弁護側の主張を前提にすれば、内田氏は賄賂を渡すことには賛同できず、ほかの方法を模索したものの、N氏らにその気がなく、自身で試みたが間に合わなかった。つまり、違法行為を止めきれなかった、ということになる。取締役でありながら、会社のコンプライアンス部門に相談するなどの対応をしなかった点を含めて、倫理的な責任を問われるとしても、だからといって刑事責任まで負わせる、というのはどうなのだろうか。
刑事責任と倫理的責任の境が問われている事件でもある。そこを、裁判所がどう判断するのかも判決が注目される。
司法取引制度の留意点について考える
本件では法人が罪を免れ、個人のみが責任を負う形で、「司法取引」が使われた。現地で現金の用意などに関わった現場の社員は罪に問われてはいないとはいえ、責任を問われた者にとっては、「トカゲのしっぽ切り」をされた感覚ではないか。それが、供述に影響したことはなかったのだろうか。
「司法取引」の導入に当たっては、犯罪の実行犯が自分の責任を免れたり軽減するために、他者を巻き込む危険性も指摘されていた。本件は、当初懸念されていたようなパターンとは違うが、贈収賄事件など物的証拠で犯罪を立証することが難しく、供述証拠が重視される事件では、巻き込みリスクも高く、格段の留意が必要ではないか、と考えさせられた裁判でもあった。
なお、内田氏本人は被告人質問で、会社が免責される形で自身が起訴された経緯を問われても、「思うところはありますが、今は言及することを控えたい」として発言を避けた。
【訂正】
双方争いのない事実を元にした事実経過説明中、2月10日の会議において「さらに、それ以前のはしけ接岸の際にも、地元住民や海上警察から『漁船の入出港に支障が出る』などとして、金を要求され、支払っていた事実も告げられた」という部分は削除します。内田氏は、以前にも金を支払った事実は、起訴後に刑事記録を見て知った、と述べていました。私の確認ミスです。申し訳ありませんでした。