高校野球のマネージャーからドラフト候補になった男。引退後もボートレーサー、騎手…終わらない挑戦【後】
野球で感じた限界と新たな夢
2017年春、小屋裕(こや・ゆたか)は社会人野球の強豪・パナソニックに入社した。神戸国際大附高ではマネージャーから要所を任される投手に成長を遂げ、大阪商業大(以下、大商大)時代には最速145キロにまで達し「ドラフト候補」にまでなった。ただ、プロ側の評価は「育成選手なら・・・」というもので、小屋は社会人球界入りし、力をつけてからのプロ入りを目指した。
「エースとして全国にも行けなかったし、プロに行った大商大の先輩投手3人(近藤大亮、金子丈、岡田明丈)を見ていたので、今の自分で活躍はまだ難しいなって思ったんです。でも“社会人で力をつけて絶対にプロになるんや”と強く思っていました」
しかしここでも周りのレベルの高さに衝撃を受けた。「同期入社の中でも負けているし、先輩もいる。このままではプロ入りはおろかパナソニックでも投げられない」と危機感をすぐに募らせた。
全国大会やその予選では登板機会は無く、自チームや対戦チームのデータ班(試合撮影と記録)に回ることも多かった。2年目の秋にようやく日本選手権のマウンドに上がることができたが、プロ入りは大学時代よりも遠く感じてきていた。
そんな時に脳裏に浮かんだのが、大学生の頃に遊びに行ったボートレース住之江での光景だ。仲間に誘われて初めてボートレースを見た時、その轟音とスピードに圧倒され、「こんな世界もあるんだと驚きました」と強く心に刻まれていた。
当時はプロ野球選手を一心不乱に目指していたので転身は一切考えなかったが、社会人野球で自身の野球選手としての可能性に限界を感じ始めていた小屋にとって「小柄な人ほど活躍ができる」ボートレーサーが少しずつ現実的な「次なる夢」となってきた。
※ボートレーサー養成所の応募資格として「身長:175cm以下、体重:男子…49kg以上57kg以下、女子…44kg以上52kg以下」と定められている。
社会人3年目以降は「ボートレーサーになりたい」という思いと、「幼い頃から続けてきた野球で後悔だけはしたくない」という思いを両立させ、時間によってそのメリハリをはっきりとつけるようにしていった。
養成所の試験を受けるための練習としては減量や心肺量を高めることを目指した走り込みと体幹の強化を行い、投手としての練習も怠らなかった。自然とまたグラウンドから帰るのはチームで最後になった。人知れず、どちらも中途半端にはしなかった。
すると、野球でも好結果が出るようになっていく。そして3年目が終わった頃、チームと会社に「野球はあと1年。ボートレーサーになりたいです」とハッキリ意向を伝えた。
みんなに“アホや”と言われた
社会人4年目の2020年、「20年間やってきた野球で後悔だけはしない。絶対に打たれない」という気持ちが小屋を投手としてさらに成長させた。「“この試合打たれたらボートの試験受けるのをやめよう”と考えながら投げることもありました」「なんでこんなに痩せていく奴を投げさすねんとは思われたくなかった」と腹を括り、自らを良い意味で追い詰めたことで好投が続いた。
そしてピーク時から10kgも落とした体重52kgの体で社会人野球の最高峰・都市対抗野球のマウンドにも登った。ピンチの場面での登板だったが失うものが無い男は怯むことなく役割を徹しきった。
ピンチを凌ぐと大きなガッツポーズを掲げ、野球人生をこれ以上ない形で締め括った。大会1週間後にはボートレーサー養成所の試験が迫っていたが、「試験にも受かり、試合も抑えられる体重で臨みました」という言葉通りの好投をし、試験に臨んだ。
大企業での安定を捨てての転身には「恩師、親、仲間、みんなに“アホや”と言われました」と言うが迷いは無かった。
「尊敬する尾崎豊は26歳で他界したんです。僕も26歳から人生を新しくしたい。生まれ変わりたいという気持ちでした」
しかし、試験の結果は無情だった。約2000人の応募者から100人に絞られる最終試験にまで進んだが、約50人に与えられる合格は掴むことができなかった。
「試験の段階で地獄のような環境でしたね。(体重が増えないように)ご飯も少ないし、時間の管理もメチャクチャ厳しくてすごかったですね。大商大とかの野球の厳しさとは比にならないくらいでした。でも走るのも負けていなかったし、手応えとしては絶対に受かると思っていました」
なぜ落ちたのかも分からず、放心状態になった。野球を引退して会社を辞めてまで挑戦し、試験に向けても「人生で一番努力した」と振り返るが報われなかった。もう減量の必要は無かったが食事も喉を通らなかった。
「1週間から2週間はボーッとしていました」と振り返るが、再チャレンジ。だが、半年後の2回目の試験も結果は不合格だった。
運命を感じるも・・・
そんな傷心の小屋が次に目指したのがジョッキー(騎手)だった。中学3年の頃に父親と一緒にディープインパクトを観に行ったこともあり、大学時代から競馬をよく観るようになってジョッキーの名前は全員言えるほどになっていた。
「何もかも失ったし、やりたいことをやろうと思ったんです。“厩務員から一発試験でジョッキーになれる”という記事を読んですぐに行動に移しました」
園田・姫路競馬の高馬元紘厩舎を訪ねてその意向を伝えると、高馬氏から「プロ野球選手にもボートレーサーにもなれなかったのはジョッキーになるためかもしれないね」と温かい言葉をかけてもらった。
乗馬さえ未経験の状態だったが「何もない空っぽの自分に期待をしてくれるのは、高馬先生だけや」と心は決まった。厩舎で働きながら馬に乗り始め、2ヶ月目からは調教厩務員として荒々しい競走馬の上に跨る日々となった。
馬の調教は深夜1時半から朝10時。それを毎日、昨年の6月から続けてきた。「普通だったら制御できないものを制御するやりがいや、かつて自分が憧れながら観ていたことをできているという喜びがありました」と充実した日々を送っていた。
「このままいけばジョッキーになれるのでは?」という淡い期待も抱いていた。
しかし、またしても辛い現実が待ち受けていた。年明けから腰に激痛が走るようになり、下された診断はヘルニア。気づけば歩くことさえままならなくなってしまった。
「まだこれからもスポーツ選手としてやっていけるんだと思っていましたし、運命を感じていたのでショックでした・・・。あと一歩で俺は何をしているんだろうって」
こうしてジョッキーの夢も諦めることになった。
夢はまだまだ無限大にある
それから1ヶ月以上が経った3月中旬に小屋と会ったが、その目つき顔つきは生き生きとしたものだった。プロ野球選手も、ボートレーサーも、ジョッキーも届きそうで届かなかった男の顔ではなかった。挑戦はまだ続いている。
「これ書いて欲しいんですけど、いつでも野球できる準備はしています。腰がダメでも足と腕はまだまだ元気。死ぬこと以外はかすり傷やし、夢はまだまだ無限大にあると思っています。まだ生きていますから、次の夢が見つかったらなんでもしてやろうと思っています。夢がなくなったら自分を失う。まだまだ人生の序章です」
小屋が尊敬する尾崎豊の歌詞にもあるように「僕が僕であるために。勝ち続けなきゃならない」。何度も敗北は喫したが、この1度きりの人生で、このまま挑戦を終えるつもりはない。
次の目指すべき勝利は何か。それを今は探している。