後世のイギリスに多大な影響を与えた、火薬陰謀事件
イギリスでは11月5日がガイ・フォークス・ナイトという記念日となっています。
このガイ・フォークス・ナイトは1605年に起こった火薬陰謀事件に由来しているのです。
この記事では火薬陰謀事件のその後と後世に与えた影響について紹介していきます。
火薬陰謀事件のその後
火薬陰謀事件が発覚した後、ガイ・フォークスが逮捕され、仲間たちが逃亡を図ったものの、政府の厳しい追及からは逃れられませんでした。
ホルベッチ・ハウスでの最後の抵抗が失敗に終わり、ほとんどの首謀者たちが死亡または逮捕された一方、政府はさらなるカトリック教徒への弾圧を強化していったのです。
ノーサンバランド伯やトレシャム、ディグビーといった関係者たちも次々と逮捕され、11月末にはガーネット神父も逃亡生活の末に捕まりました。
陰謀の阻止はイングランド全土に安堵をもたらし、国王ジェームズ1世の権威は大いに高まったのです。
ソールズベリー伯ロバート・セシルはこの機会を逃さず、カトリック教徒への厳しい措置を取るとともに、国王への忠誠心を強調した演説を行い、議会からの支持を得ることに成功します。
一方、政府は火薬陰謀事件に関与したとして、カトリック司祭や陰謀に加担した貴族たちを厳しく取り調べ、裁判にかけました。
特に、フォークスやウィンター、ベイツら主要メンバーに対する尋問は厳しく、拷問によって多くの自白が引き出されたのです。
事件発覚に寄与したモンティーグル卿の手紙がトレシャムの書いたものであるとの疑いも持たれたものの、トレシャムは真実を明かすことなく獄中で亡くなりました。
彼の死は、後のガーネット神父の裁判でも利用されたのです。
裁判では、首謀者たちに厳しい刑罰が下されました。
フォークスをはじめとする生き残った者たちは、首吊り、内臓抉り、四つ裂きの刑に処せられたのです。
彼らの処刑はロンドンの民衆に見守られながら執行され、陰謀に関わった者たちの運命は悲惨なものとなりました。
ガーネット神父もまた、カトリックの大義を守ろうとしたものの、最終的には死刑に処され、事件の余波はイングランド全土に広がりました。
この事件により、イングランドにおけるカトリック教徒への不信感はさらに深まり、政府はカトリック教徒に対する制約を強化したのです。
しかし、国民の多くはジェームズ王を支持し、陰謀に加担したのは一部の過激派カトリック教徒であるとの認識が広がったのです。
火薬陰謀事件はその後、イングランドの歴史に深く刻まれ、今日の「ガイ・フォークス・ナイト」として記憶されています。
火薬陰謀事件が後世に与えた影響
1605年の火薬陰謀事件の露見は、イングランド全土に大きな影響を与え、その後の歴史に深く刻まれました。
事件の翌年、1606年1月に議会で「11月5日遵守法」が可決され、毎年11月5日を記念して、教会で礼拝や説教を行うことが定められたのです。
これが「ボンファイア・ナイト」や「ガイ・フォークス・デー」として広まっていきます。
この祝祭日は1859年まで法的に有効であり、現在でもイギリス各地で花火や焚き火が行われているのです。
伝統的な行事では、子供たちがガイ・フォークスを模した人形を作り、街頭でお金を集め、その人形を焚き火で燃やすという風習がありました
。こうした風景は今では珍しくなったものの、ガイ・フォークスが処刑された日を祝う習慣は、今も花火大会やパーティーという形で続いています。
特にサセックス地方のルイスでは、壮大な行列や焚き火が催され、最も華やかなイベントとして知られています。
この記念日はイギリスだけにとどまらず、かつてのアメリカ植民地でも「ポープ・ナイト」として大いに祝われました。
ボストンでは反権力的な意味合いを持ち、時には騒動が起きるほどだったといいます。
もし決行されていたら多くの犠牲者を出していた火薬陰謀
余談ですが、2005年にはテレビ番組『The Gunpowder Plot: Exploding The Legend』で、火薬陰謀事件の実験が行われました。
貴族院のレプリカを建設し、当時と同じ火薬の量を使って爆破した結果、その威力は想像を超えるもので、貴族院全体を瓦礫に変え、玉座に座っていた国王や周囲の貴族たちが瞬時に命を落とすほどの規模だったことが実証されたのです。
爆発の衝撃はウェストミンスター寺院のステンドグラスを粉々にし、数マイル先からもその光景が見えたはずだといいます。
番組はまた、火薬が劣化していても十分に爆発を起こせたことを確認し、ガイ・フォークスが計画の成功に向けて慎重に準備を進めていたことを証明しました。
参考文献
アントニア・フレイザー著 加藤弘和訳(2003)『信仰とテロリズム:1605年火薬陰謀事件』慶応大学出版会