一味が逃げ出した、火薬陰謀事件
イギリスでは11月5日がガイ・フォークス・ナイトという記念日となっています。
このガイ・フォークス・ナイトは1605年に起こった火薬陰謀事件に由来しているのです。
この記事では火薬陰謀一味の逃亡について紹介していきます。
逃げ出す一味、拷問に耐えるフォークス
1605年11月5日、火薬陰謀が発覚した朝、ロンドンは緊迫した空気に包まれていました。
ガイ・フォークス(当時「ジョン・ジョンソン」と名乗っていた)は議会の地下室で逮捕され、その計画が明るみに出たのです。
フォークスと仲間たちは、議場の地下に火薬を仕掛け、国王ジェームズ1世や貴族たちを一瞬で爆破しようとしていました。
計画の発覚は、モンティーグル卿に届いた謎の手紙がきっかけだったとのことです。
ロンドンで逮捕のニュースが広がると、陰謀に関与していた者たちはすぐに逃亡を図りました。
まず、クリストファー・ライトが事態を察知し、トマス・ウィンターに報告します。
そして、一行は次々とロンドンを脱出し、北西のミッドランズ地方に向かいました。
ルックウッドは驚異的な速さで30マイルを駆け抜け、他の逃亡者たちに追いつきます。
やがて全員がケイツビーらと合流し、次の行動を決めるべくディグビーの「狩猟隊」が待機するダンチャーチへ向かいました。
一方、フォークスはロンドンで尋問を受けていました。
彼は頑なに「ジョン・ジョンソン」という偽名を使い、自分ひとりが犯行に関与したと主張したのです。
国王を爆破しようとしたことを認めながらも、その冷静な態度は王ジェームズ1世を驚かせ、「ローマ人のような決断力」と評価されました。
しかし、その決意も長くは続きません。拷問が始まり、フォークスはやがて計画に関わった他のメンバーの名前を口にすることになるのです。
11月6日、フォークスはロンドン塔へと移送され、首席裁判官ジョン・ポパムがさらに尋問を進めました。
ここで、ケイツビーやウィンター、ルックウッドらが陰謀に関与していたことが明らかになったのです。
フォークスは最初、抵抗を示していたものの、拷問が激しさを増すにつれ、次第に情報を漏らし始めました。
ジェームズ1世の命令により、フォークスは徐々に「優しい拷問」から、より厳しい拷問へと追い込まれていったのです。
最終的に、彼は計画の詳細を白状し、陰謀の全貌が明らかになりました。
逃亡を続けていたケイツビーら一味は、武力での抵抗を試みようとしたものの、その道も険しかったのです。
ディグビーらと合流した後、彼らは戦う意志を見せるものの、時代の波に抗うことはできませんでした。
参考文献
アントニア・フレイザー著 加藤弘和訳(2003)『信仰とテロリズム:1605年火薬陰謀事件』慶応大学出版会