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30年前の10月14日、近鉄優勝! その1年前のドラマを覚えていますか?【1】

楊順行スポーツライター
イチローの命名で知られる仰木彬。1988年は近鉄の監督初年度だった(写真:アフロ)

1989年10月14日 藤井寺球場

ダイエー 000 000 110=2

近  鉄 100 310 00X=5

「佐々木ィ(修)、オマエ今年は何勝したんや?」

「1勝や!」

「その1勝が大きかったな!」

 1989年10月14日。前年限りで現役を引退し、解説者となっていた梨田昌孝はその日、MLBのワールドシリーズ取材のため渡米していた。サンフランシスコのホテルに到着するやいなや、日本の自宅に電話をかけ、受話器をテレビの前に近づけさせた。そこから聞こえてきたのが、「佐々木ィ」の声。折りしもスポーツニュースの時間で、この日近鉄バファローズが、ダイエーとの試合に勝って9年ぶり3回目のリーグ優勝を達成してくれたらしい。シーズン130試合のうちの129試合目。2位オリックスとのゲーム差はゼロ、3位西武とも0.5差という未曾有の混戦を抜け出した。やった、優勝したんだな。長かったな、なにしろ2年ごしだから……梨田の頭をよぎったのはおよそ1年前、88年10月19日の、ロッテとのダブルヘッダーだった。

オグリキャップ並みの末脚

 その88年、パ・リーグの優勝争いは西武の独走かと思われた。なにしろ、過去5年で4度優勝している王者である。2位近鉄につけた差は、最大で8。9月15日時点でも、まだ6ゲームの差があった。ところが、前年は最下位だった近鉄が終盤、猛烈に追い上げる。9月16日から10月5日まで、8連勝を含む11勝1敗。この間には西武が4勝6敗ともたついたから、一時は勝率で1厘上回り、マジックも点灯した。この年に地方競馬から中央に転厩し、大活躍したオグリキャップ並みの、4コーナーを回ってからの驚異的な差し足である。

 仰木彬新監督に率いられた近鉄は、2年目の阿波野秀幸を中心に小野和義、山崎慎太郎、ルーキー高柳出己、そして抑えに吉井理人という投手陣。いてまえ打線と呼ばれた攻撃陣はブライアント、オグリビー、鈴木貴久らを中核に、大石第二朗、新井宏昌らクセ者がからむ顔ぶれだ。そこへもってきて、代打起用や投手交代に妙を見せ、ときに大胆な奇策をまじえる仰木マジック……。

 10月7日からの13日間で15連戦という殺人的な日程も、途中、金村義明の左手首骨折という大きなアクシデントがありながら、10月16日まで8勝3敗。この日に先に全日程を終了した西武は、ラスト10試合を8勝2敗のハイペースで、トータルを73勝51敗6分けとしていた。一方の近鉄は、残り4試合で72勝51敗3分けのマジック3だ。優勝は、果たしてどっち……。

 世間はこういうとき、追う立場に肩入れしがちだ。そもそも、西武の天下にあきあきしていた。知将・森祗晶のスキのない、洗練された野球はどうも面白味に欠ける。それよりも、試合中止が決定したらその足で飲みに行ってしまうような、いてまえ野郎のほうがおもしろい。その近鉄には86年、129試合目で優勝を逃すというドラマ性もあった。

 17日、127試合目となる西宮球場での阪急戦。阿波野が石嶺和彦の2ランに沈み、打線も星野伸之に沈黙して、痛い痛い黒星を喫すると、近鉄はあと3試合、引き分けすら許されず、すべて勝つしかない。18日、移動した川崎球場でのロッテ戦は、12対2で大勝した。残るはロッテとの2試合、10月19日のダブルヘッダーのみである。その、ロッテ。有藤道世監督が就任した87年は5位、この88年も最下位にあえいでいた。西武には7勝19敗と大きく負け越し、近鉄にもここまで6勝17敗1分けと両者のお得意さんだが、ことに近鉄には17回戦から8連敗中である。白熱した優勝争いのさなか、10月9日からの6連戦でも6連敗しており、その不甲斐なさはことに西武ファンからあからさまに非難された。同じプロで、意地もある。相手に優勝がかかっていようが、もう負けるわけにはいかない。ここまでが、川崎『10・19』劇場のプロローグだ。

優勝へはダブルヘッダー連勝のみ

 整理しておく。その時点でのパ・リーグの順位は、

1 西武 73勝51敗6分け 勝率.588

2 近鉄 73勝52敗3分け 勝率.579

 ゲーム差は0.5と、全日程を終了している西武がわずかに首位。ただ近鉄は、ダブルヘッダーの2試合を連勝すれば劇的な優勝だ。もっとも、引き分けは許されない。1勝1分けだと、ゲーム差はなくなるが勝率は.587でわずかに届かないのだ。

 第1試合。1対3と2点を追う近鉄は8回、代打・村上隆行が左中間に同点二塁打を放って追いついた。ただ、近鉄にはもうひとつの敵がある。当時の規定では、ダブルヘッダーが行われる場合、第1試合は延長戦に入らない。つまり同点のまま9回を終えたら引き分けとなり、優勝には2試合勝つしかない近鉄にとっては、9回に点が入らなかったら自動的にジ・エンドとなるわけだ。試合が始まったころには空席が目立った川崎球場だが、めずらしく3万人がつめかけたスタンドは、一種異様なムードに包まれた。あと1回ある、いや、1回しかない……その緊迫感は、フィールドの選手たちにも伝わっていた。

 3対3と同点の9回、近鉄の攻撃はオグリビーがショートゴロ。近鉄のベンチは頭を抱えた。あとアウト2つのうちに点が入らなければ、86年と同じ、129試合目での涙となる。だが続く淡口憲治が、あとほんの50センチでスタンドインというライトフェンス直撃の二塁打。俊足の佐藤純一が代走に出て、ヒット1本が出れば勝ち越しと、夢はまだつながる。ロッテベンチも動いた。中日から移籍2年目、チーム勝ち星のうちほぼ半分の25セーブをあげている牛島和彦をマウンドに送るのだ。

勝ち越しのはずが崖っぷちに

「牛島ぁ〜、オマエ関西人やろ! 手加減したってくれぇ〜」

 敵地をほぼ占拠した近鉄ファンの絶叫に乗り、次打者・鈴木貴久の打球はライト前に。佐藤純の足なら、ホーム生還は十分だ。勝ち越しや、逆転や……のはずが、指示を出すはずの滝内弥瑞生三塁ベースコーチは、われを忘れたのかホーム方向に駆けていき、指示もままならない。ライトの岡部明一から好返球がくる。足のスペシャリスト・佐藤純が、戸惑いながら三本間に立ち止まると、右翼手から捕手、さらに三塁手、また捕手とボールが渡り、挟殺……。勝ち越しのはずが一転、2死二塁の崖っぷちだ。あと1アウト、あと一人で点が入らなければ、近鉄の激闘は終わる。しかも、9回打ちきりという、ダブルヘッダーの残酷な変則ルールによって、だ。

 打順は、加藤正樹に回る局面だ。仰木監督は、やけにじっくりと時間をかけて考えていた。代打を出すべきか……いや、むしろこれは、走塁ミスというイヤな流れを沈静化するための、意図的な間だった。ウ〜ンとわざとらしく首をひねり、さんざん迷ったふりをして、ようやく主審に告げたのが「代打、梨田」だった。そう、この稿の冒頭、翌年10月にサンフランシスコから国際電話をかけた梨田昌孝である。

1988年10月19日 川崎球場 第1試合

近 鉄 000 010 02

ロッテ 200 000 10

(続く)

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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