【駅の旅】震災から10年、女川はかさ上げして新しい町を再建/JR石巻線・女川駅(宮城県)
震災前の女川は活気ある漁業と原子力の街
石巻線は、東北本線の小牛田(こごた)駅から石巻駅を経て太平洋岸の女川駅を結ぶ44.7キロのローカル線である。終点の女川駅は長年、女川町の表玄関だった。この町は太平洋岸にある牡鹿半島の付け根にある漁業と原子力発電所で発展した町。かつての女川駅からは、女川漁業まで歩いて3分ほどの距離だった。そこには多くの漁船が停泊し、魚介類を売る店で賑わっていた。港には明るい太陽がふり注ぎ、人々の活気にあふれていた記憶がある。また、沖合に浮かぶ金運の神様と言われる黄金山神社がある金華山への定期航路も毎日発着していた。
東日本大震災に伴う津波で甚大な被害
ちょうど10年前、2011年3月11日に起きた東日本大震災に伴う大津波で、女川は壊滅的な被害を受けた。死者行方不明者827名、全壊2,924棟を含めて4,411棟の住宅が損傷した。
筆者は震災の2か月後に取材のためこの町を訪れた。駅のあった場所には駅舎の土台だけが残り、一段高い場所にあったホームは、コンクリートの塊だけが残り、路盤から引きはがされた線路が無残な姿をさらすばかりだった。駅構内にあった入浴施設「ゆぽっぽ」も跡形もなく瓦礫と化した。周辺には、流されてきた漁船や、スクラップとなった自動車の残骸が並び、近くには赤い列車が哀れな姿で横たわっていた。
さらに上を見上げれば、丘の上の竹藪の中に横倒しになった白い列車の姿を発見した。海水を浴びた竹藪は枯れはて、笹の葉が不気味に揺れていた。丘に登ると、そこは墓地だった。地震で倒れた墓石は無残なほどに砕かれ、その上に、駅に停車中だった列車が津波で流されて、墓石を圧し潰すように横たわっていたのである。線路からの高さは、20メートル近くあっただろう。そんな高さまで重い列車を打ち上げるとは、なんというエネルギーだろうか。思わず言葉を失い、その場に立ち尽くした。女川の町と海を眺めるこの墓地は、永遠の眠りについた人々の安らかな場所だったに違いない。だが、その時、そこから見えたのは、瓦礫に囲まれた無残な廃墟であった。思わず、目を閉じて静かに合掌するしかなかった。
漁港近くの道路は地盤沈下して大きな水たまりができていた。あの活気のあった港は静まり返り、どんよりと曇った空にカモメが舞っていた。筆者は無言で、悲しみの港をあとにした。
駅は200メートル内陸に移設し、新たな町を再建
石巻線は震災直後から不通を余儀なくされたが、段階的に復旧工事が行われた。被害が比較的軽微だった小牛田~石巻間は震災の2か月後、石巻~渡波(わたのは)間は2012年3月に、渡波~浦宿(うらしゅく)間は翌年3月に運転を再開した。最後まで残った浦宿~女川間の工事が完成し、全線復旧したのは震災から4年後の2015年3月21日のことだった。
女川駅は200メートル内陸部に移設し、7メートルかさ上げされた場所に、開放的な明るいイメージの駅舎が完成し、駅舎内で女川温泉「ゆぽっぽ」も営業を再開した。1往復だけではあるが、仙台までの直通快速列車が運転されるようになった。駅前から海に向かう通りは「シーパルピア女川」と名付けられ、見違えるほどお洒落なレンガ道の商店街に整備され、訪れる人の姿も徐々に増えてきた。そして、町で唯一のスーパーも営業を再開し、駅を中心として人々の日常がようやく戻りつつある。
あの日から10年、震災以降に町を離れた人も多く、10,000人以上だった町の人口は6,200人あまりに減少した。金華山への定期船は、今は日曜日のみの運行である。まだまだ復興途上だが、一日も早く、かつての賑わいを取り戻してほしいと心から願っている。
【テツドラー田中の「駅の旅」④/JR東日本/石巻線女川駅/宮城県牡鹿郡女川町女川】