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寺原隼人が振り返る高校時代。「もし最速を出していなければ……」

楊順行スポーツライター
2001年、高校生として日本代表に選ばれた寺原隼人(写真:アフロスポーツ)

 もちろん、公式なものではない。なにしろ、春夏の甲子園でスコアボードに球速が表示されるようになったのは2004年のセンバツからなのだ(もっとも、スコアボードの表示だって公式記録ではないのだが)。それ以前、高校生投手の球速といえば、テレビ中継で表示されたものが根拠。だが、それにしても……01年8月16日、宮崎・日南学園の寺原隼人(現ヤクルト)が甲子園で記録した数字はべらぼうだった。テレビの表示で154キロ。それ以前は、横浜(神奈川)の松坂大輔(現中日)らの151キロが高校生最速とされており、それをイッキに3キロも上回ったのだ。

 その寺原が……今季限りで現役を引退する意向を、球団に伝えたという。で、プロ入りから3年目の04年、ダイエー(現ソフトバンク)に在籍していた寺原に、高校時代を振り返ってもらったことを思い出した。

「球場の外壁に蔦がからんでいて、ああ、テレビで見たのといっしょだな、と。外から見ると、意外とちっちゃいんですよ。でも実際中に入ると、でかすぎるくらいでかくて(笑)ビックリしましたね。またブルペンが、お客さんと近いじゃないですか。すぐ近くで声が聞こえてくるし、だからよけいお客さんが入っているように感じるのかもしれません」

 甲子園といわれて、真っ先に思い出すのは……という問いに対する答えがこれだった。

 6月の練習試合で155キロをマークしていた、その夏の寺原。8月11日、四日市工(三重)との初戦。松坂を超える速球派として注目を集めた初球、いきなり148キロをたたき出すと、球場全体がウオーという歓声に包まれた。当時の甲子園に、スピード表示はない。だが、だれもが「速い!」と感じるストレートだった。寺原はいう。

「初球はストレートと決めていたんですよ。だけど相手がそれをいきなり当てたじゃないですか。ふつう当てるか、見せ場なのに(笑)。それにしても、地響きみたいな歓声でしたね。自分が投げた感覚じゃいつも通りなのに、なにがウオーなんだろう、と」

松坂さんと比較されるプレッシャー

 その四日市工戦は、寺原が8回を1失点で8対1と勝利。そして、玉野光南(岡山)との2回戦だ。5回裏から救援した寺原は、6回に154キロの高校最速を記録するのだ。3点は失ったが、チームは延長で勝利している。3回戦は体調不良の寺原が登板を回避したが、東洋大姫路(兵庫)に15対0と大勝。そして準々決勝では、横浜との対戦だ。日南が勝ち進むにつれ寺原の人気はヒートアップし、さらに寺原が最速を抜いた松坂の母校と対戦するとあって、5万5000人の大観衆が甲子園に詰めかけている。

「人の多さにはビックリしましたね。本当にすごかったですよ」と寺原がいうその試合は、2対2の同点から9回、寺原が2点打を浴び、日南学園はベスト8どまり。だが、寺原は振り返った。

「どうしても松坂さんと比較されたんですが、比べられるだけで、自分でも"すごくなったな"と思っとったんです。僕の頭のなかでは、どうせなら史上最速、スピードを抜きたいというのがあって。まず初戦で151キロ、2回戦で154キロとか、157キロ(注・ネット裏のスカウトによる計測)が出て松坂さんの記録を抜いたんで、もう大満足でしたね。ただ実は、157キロといわれているタマは、それほど"いった!"という感覚じゃなかったんです。むしろ初戦の151キロのほうが、自分としては速く感じました。だから157というのは、計測ミスじゃないですか(笑)。154キロはまあ出ても不思議じゃなかったとして、157キロはちょっと……。ただプロに入ってからも、どうしても"松坂の記録を抜いた寺原"、というふうに見られてしまうんですよ。それがときどきプレッシャーになって。おとなしく、高校では148キロくらいにしておけばよかったかな(笑)」。

 プロでの実績は松坂に及ばなかったが、高校時代の最速を、"おとなしく"松坂以下に抑えていればどうだっただろうか……それでも寺原は、この01年に開かれたIBAFワールドカップの日本フル代表に、史上初めて高校生として選ばれている。それは松坂さえなし得なかった偉業である。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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