【深読み「鎌倉殿の13人」】源義経が早々に都落ちし、頼朝が得た思いがけない成果
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の第19回では、源義経が頼朝に叛旗を翻したものの、すぐに都落ちした。その後、頼朝は思いがけない成果を得たが、その点を詳しく掘り下げてみよう。
■源義経と源頼朝の確執
元暦2年(1185)、源義経が兄・頼朝の代官として平家追討の軍勢を率いて都に入ると、後白河法皇に急接近した。頼朝の推挙もないのに、義経は検非違使に無断で任官し、頼朝の機嫌を損ねた。ここから両者の確執は深まっていく。
平家の追討後、梶原景時は頼朝に書状を送り、義経の我意に任せた振る舞いを報告した。結局、義経は鎌倉に向かったが、頼朝との面会が叶わず、虚しく京都に引き返す羽目になった。
京都に戻った義経には、頼朝を快く思わない叔父の行家らが急接近してきた。同年10月、義経は後白河から頼朝追討の宣旨を獲得した。後白河は下手に義経を刺激し、京都で狼藉を働くと大変なので、宣旨を与えたという。頼朝には、あとで弁明するつもりだったらしい。
■義経追討軍の派兵
追討宣旨が発せられたことを知った頼朝は、ただちに義経追討軍の派兵を決定した。同時に頼朝は、これを好機として後白河や公家らに圧力をかけようと考えた。一石二鳥だったのだ。
同年10月25日に小山朝政らが出発すると、29日に頼朝も自ら兵を率いて鎌倉を発った(入京はしなかった)。そして、東海、東山、北陸の三道に動員を掛けるなどし、並々ならぬ意欲を見せた。
この頃、京都では朝廷だけでなく、住民までもが頼朝襲来を恐れて激しく動揺していた。おまけに、義経と行家のもとには思ったように軍勢が集まらなかった。これでは、とても頼朝には対抗できない。
そこで、敗勢が濃いと察した義経は、自身を九州の惣地頭、行家を四国の惣地頭に任じる旨の院宣を得たうえで、同年11月5日に都落ちしたのである。この院宣が有効であったか否かは定かではない。
■頼朝が得た成果
頼朝の軍勢が入京すると、後白河の態度は一変した。まず摂政だった近衛基通に代えて、親頼朝派の九条兼実を起用した。頼朝に対する配慮である。
同年11月7日、義経の官職を解くと、続けて義経・行家追討の院宣を諸国に下した。この点に関しては、兼実が日記『玉葉』のなかで、後白河の変わり身の早さを批判している。
その後、後白河はこれまでの経緯を説明するため、高階泰経の使者を頼朝に派遣した。後白河の弁解は、義経・行家の謀反は天魔の所為で、宣旨は強要されたので出さざるを得なかったというものだった。
この言葉を聞いた頼朝は、後白河の変節ぶりを手厳しく批判し、「日本一の大天狗」と称した。頼朝にすれば、ここまで後白河に尽くしたのだから、言いたくなる気持ちも理解できる。
朝廷を信用できなくなった頼朝は、親義経派だった高階泰経ら12名の公卿を解官し、代わりに兼実以下の親頼朝派の公卿を起用して、朝廷との関係を密にすることとした。
さらに、頼朝は京都に北条時政を置き、平家の残党や義経の逮捕、そして朝廷の監視を行わせた。こうして頼朝は、朝廷のコントロールに成功するという、大きな成果を挙げたのである。