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「大阪で観測史上初の震度6弱」は誇張しすぎ? 気がかりな震度インフレ

福和伸夫名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長

 6月18日に発生したマグニチュード(M)6.1の大阪府北部の地震では、高槻市、茨木市、箕面市、枚方市、大阪市北区など、5市で、最大震度6弱の揺れを観測し、7月5日時点で、死者4人、負傷者434人、住家被害は全壊9、半壊87、一部損壊27,096もの被害を出しました(消防庁による)。マグニチュードが小さく、揺れもさほど大きくないのに、このような大きな被害になったことは、これまで経験したことがないことです。

マグニチュード6.1の地震で4人もの死者

 気象庁のホームページに掲載されている阪神・淡路大震災の後に発生した被害地震のうち、マグニチュードが6.0から6.5の地震は全部で35個あります。この中で死者を出した地震は、2000年新島・神津島近海の地震(M6.5)、2009年駿河湾の地震(M6.5)、2012年千葉県東方沖地震(M6.1)の3つだけで、いずれも死者は1人です。

 また、最大震度6弱の被害地震は全部で19個ありますが、その中で死者を出したのは7地震で、上記の2000年新島・神津島近海の地震、2012年千葉県東方沖地震のほかは、2001年芸予地震(M6.7、死者2人、住家全壊70)、2008年岩手県沿岸北部の地震(M6.8、死者1人、住家全壊1)、2005年福岡県西方沖地震(M7.0、死者1人、住家全壊144)、2011年福島県浜通りの地震(M7.0、死者4人)、2003年十勝沖地震(M8.0、死者1人・行方不明1人、住家全壊116)の5つの地震があります。

 これらは、いずれも規模の大きな地震で、震度観測点がまばらにしかない地域で、人口密度も低い場所です。また、福岡県西方沖地震で甚大な被害を出した玄海島では震度観測がされていませんでした。また、十勝沖地震では9町村と、はるかに広域で震度6弱の揺れに見舞われています。全壊家屋数から推定すると、最大震度は何れももっと大きかっただろうと想像されます。

 こういった意味で、大阪府北部の地震で、M6.1、最大震度6弱だったのにも関わらず、このような被害を出したことは、大都市ゆえの脆さだと言えそうです。

震度4だったのに31人もの死者を出した23年前の大阪

 1995年阪神・淡路大震災のときの大阪府の震度は4でした。なのに、死者は31人、全壊家屋数895棟でした。今回の地震の最大震度6弱、死者4、全壊9と比べて、はるかに被害が大きいことが分かります。震災後23年間での耐震化の効果のおかげでしょうか?

 実は、23年前には大阪の震度は、大阪市中央区大手前に設置された計測震度計が代表していました。震度計による震度は、6が神戸と洲本、5が豊岡、彦根、京都でした。震度7は実地調査に基づく必要があったため発表に3日を要しました。

 現在は、大阪府内に88地点の震度観測点があります。そのうちの5地点で震度6弱の揺れを観測しました。実は、今回の地震での大阪市中央区大手前の震度は4でした。

 2つの地震を経験した大阪の知人は、23年前の方が遥かに強い揺れだったと言います。観測された記録を見てみると、最大加速度は、阪神・淡路大震災の揺れが81ガル、大阪府北部の揺れが176ガルと今回の地震の方が大きいのですが、最大速度は19cm/秒と12cm/秒とで、阪神・淡路の方が大きな揺れになっています。家屋被害に関係する周期1秒前後の揺れの強さを比べてみると、阪神・淡路の方が2~3倍大きな揺れとなっていました。振動台で2つの地震の揺れを再現し比較したところ、揺れの強さ、継続時間とともに、阪神・淡路の方が遥かに強烈でした。

 ちなみに、高槻市で震度6弱の揺れが記録された波形を分析すると、最大加速度は794ガルと大きいものの、周期0.3秒前後の短周期の揺れが卓越していて、最大速度も40cm/秒程度でした。また、中央区大手前の長周期地震動階級は2と、長周期の揺れも2011年東北地方太平洋沖地震のときと比べ大きなものではありませんでした。

 ということで、23年前に震度観測の体制であれば、大阪府北部の地震の最大震度は4程度でしかなく、一方で、現在と同じ密度の震度観測網が23年前にあったとしたら、阪神・淡路大震災での大阪の最大震度は震度6強に相当すると言うことになります。震度4の阪神・淡路大震災の方が被害が大きかった理由は、震度観測のマジックにあったようです。

充実する震度観測網、体感震度から計測震度へ

 私たちが日ごろ耳にする震度は、気象庁震度階で、日本独特のものです。震度らしきものが登場したのは1884年です。関谷清景がまとめた「地震報告心得」に基づいて、全国約600か所の郡役所で地震の情報収集を始めたことがスタートのようです。このときは、「微震」・「弱震」・「強震」・「烈震」の4階級でした。その後、1898年に「微震(感覚ナシ)」、「弱震(震度弱キ方)」、「強震(震度弱キ方)」を追加し、0から6までの震度の数字が当てはめられました。さらに、1948年福井地震での甚大な被害を受けて、震度7を加えて8段階になり、それぞれの名称を「無感」・「微震」・「軽震」・「弱震」・「中震」・「強震」・「烈震」・「激震」にしました。

 震度の判定は、気象台や観測所などで気象台職員などが体感や被害状況に応じて主観的に決めていました。ただ、震度7だけは実地調査に基づいて「家屋倒壊率30%以上」のエリアを指定することになっていました。体感で震度計測し、それを報告する方式ですから、全国の震度情報を収集するには相当な時間がかかります。このため、計器(震度計)を用いた震度観測が模索されました。

 そこで、1988年に、震度計による計器観測を試験的に開始し、1993年に300か所、1996年に600か所と震度計による観測点を増やしていきました。まさにその時に起きたのが1995年阪神・淡路大震災(兵庫県南部地震)です。実地調査を前提とする震度7の判定には時間を要することから、震度7も計器判定とすることとし、震度5と6も被害に幅があることから、「弱」と「強」に分けて10段階の震度階にすることにして、1996年4月から現在の震度計による観測が本格的にスタートしました。

 その後、防災科学技術研究所約800か所、地方公共団体約2800か所の震度観測網も整備されたことから、気象庁約600か所の震度観測点に加えて、これらのデータも活用することとし、現在では、合計約4200か所での震度を気象庁が発表するようになりました。

 即時に高密度の震度が発表される素晴らしい体制になったのですが、一方で、高密度な震度観測が震度のインフレを起こしているようです。

阪神・淡路大震災以前の被害地震の震度

 震度階が導入された1898年以降、1995年阪神・淡路大震災までに、死者100人以上を出した被害地震は12個あります。1923年関東地震(M7.9、震度6、死・不明 10万5千余)、1925年北但馬地震(6.8、6、428)、1927年北丹後地震(7.3、6、2,912)、1930年北伊豆地震(7.3、6、272)、1933年昭和三陸地震(8.1、5、3,064)、1943年鳥取地震(7.2、6、1,083)、1944年東南海地震(7.9、6、1,183)、1945年三河地震(6.8、5、1,961)、1946年南海地震(8.0、5、1,443)、1948年福井地震(7.1、6、3,769)、1983年日本海中部地震(7.7、5、104)、1993年北海道南西沖地震(7.8、5、230)の12地震です。100人以上の甚大な被害を出しているにもかかわらず、最大震度が5の地震が5つもあります。

 また、戦後に起きた著名な地震として、1952年十勝沖地震(8.2、5、33)、1964年新潟地震(7.5、5、26)、1968年十勝沖地震(7.9、5、52)、1978年宮城県沖地震(7.4、5、28)がありますが、いずれも最大震度は5です。どうも、阪神・淡路大震災の前と後とでは、最大震度の意味はずいぶん異なっているようです。

 大阪府北部の地震で、「大阪で観測史上初の震度6弱」のタイトルが踊った記事を多く見かけましたが、どうも震度インフレのようです。これからやってくるかもしれない大地震の揺れは、全く異なるものです。万全のハード対策をしておきたいものです。

名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長

建築耐震工学や地震工学を専門にし、防災・減災の実践にも携わる。民間建設会社で勤務した後、名古屋大学に異動し、工学部、先端技術共同研究センター、大学院環境学研究科、減災連携研究センターで教鞭をとり、2022年3月に定年退職。行政の防災・減災活動に協力しつつ、防災教材の開発や出前講座を行い、災害被害軽減のための国民運動作りに勤しむ。減災を通して克災し地域ルネッサンスにつなげたいとの思いで、減災のためのシンクタンク・減災連携研究センターを設立し、アゴラ・減災館を建設した。著書に、「次の震災について本当のことを話してみよう。」(時事通信社)、「必ずくる震災で日本を終わらせないために。」(時事通信社)。

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