金杯を勝ちたい男が、戒めにしている初勝利直後の出来事と今年に懸ける気持ちとは?
天国から地獄へ一転した出来事
勝ちたいレースは何ですか?
そう問われると多くのジョッキーは「ダービー」や「ジャパンC」など、思い入れのあるG1レースの名を挙げる。そんな中、一風変わった返答をする男がいる。
「金杯です」
そう応えるのは津村明秀。1986年生まれで34歳のジョッキーだ。
船橋競馬場から歩いて5分の所で生まれ育った津村は、幼い頃から父に連れられてたびたび中山競馬場を訪れていた。94年にナリタブライアンが有馬記念(G1)を制した場面を見て騎手に憧れると、小学5年の時には乗馬を始めた。
「野球やサッカーもやったけど途中で辞めてしまいました。でも、乗馬だけはずっと続けました。幼い頃はポニーに乗るのさえ怖かったけど、乗馬は俄然、夢中になり、寝藁上げなどの厩舎作業も積極的にやっていました」
中学卒業後、競馬学校に入学。川田将雅や藤岡佑介ら同期生17人でスタートしたが、最終的に卒業したのは8人だけ。その中でも最も成績が優秀な生徒に与えられるアイルランド大使特別賞を受賞したのは、模擬レースでも2戦2勝の津村だった。
2004年、美浦・鈴木伸尋厩舎からデビュー。「何も出来ないままアッと言う間に終わってしまった」と言うデビュー戦だったが、3週間後には初勝利。ところがその次に騎乗したレースで天国から地獄へ突き落された。
「師匠が管理して、未勝利戦で2着惜敗を繰り返していたマイティーキングという馬に騎乗しました。未勝利戦がなくなった後だったので格上挑戦で何とか出走できた馬でした」
悲劇が起きたのはゲートインした後。マイティーキングがゲートをくぐり、津村は前扉に手を挟まれた。
「指を骨折し、じん帯も損傷しました」
体の傷はやがて癒えたが、当時、心に負った傷は今でも残り火のように燻り続けていると言う。
「結局マイティーキングは除外となり、そのまま競走生活を終えました。沢山の人の想いがつまってようやく出走にこぎ着けたのに、僕のせいで全てが台無しになってしまった。申し訳ない気持ちでいっぱいになり、その後はそれまで以上に色々な部分に注意を払って乗るようになりました」
以来、どんな馬に乗る時にもそんな想いを持ち続けた。また、木馬を購入して乗ったり、体格の近い武豊のフォームを真似したりと努力を怠らずに続けた結果、一昨年の18年にはキャリアハイとなる52勝を記録。ここ2年は怪我もあってその数字を下回ってしまったが、カレンブーケドールによるオークスやジャパンCでの2着(いずれも19年)など、大舞台でももうあと一歩という活躍を披露できるようになった。
奇跡的に念願のレースを制覇
そんな津村に奇跡が起きたのは09年の事だった。
冒頭で記した通り例年1月5日に行われる「金杯」を勝ちたいレースにあげている津村だが、この年の中山金杯は1月4日の開催となった。これによりこの年の悲願達成は無くなったかと思われたが、なぜか京都金杯は予定通り5日の施行。いつもならJRAの開幕を告げるべく東西同時に行われる金杯が、気紛れな競馬の神様の差配かこの年は京都だけが1日遅れで開催されたのだ。
そのため5日、津村はたった1鞍のために京都競馬場にいた。京都金杯で7番人気のタマモサポートに騎乗したのだ。そして結果は見事に優勝。念願の金杯制覇を飾ってみせたのである。
悔しい想いと今年に懸ける気持ち
それから干支が丁度ひと回りしたが「マイティーキングから得た教訓」は現在も当時と変わりなく津村の心の中に宿っている。今年の中山金杯ではショウナンバルディに騎乗する。
「調教にも乗った事がなく、正真正銘の初騎乗ですが、前任者の岩田(康誠)さんからは『良い状態を維持している』と聞いているので期待しています」
そろそろまた大願成就があるかもしれない。そんな開幕ダッシュと共に、今年は大舞台での優勝劇が見られる事も願いたい。津村は言う。
「スイートピーS(1着)からずっとコンビを組ませていただいたカレンブーケドールでしたが、有馬記念では乗り替わりとなり、本当に悔しい想いをしました。再び声をかけてもらえるよう、今年は改めてしっかりと結果を出して頑張ります!!」
その意気やよし。金杯の行われる本日1月5日は津村明秀の誕生日。バースデーVからの更なる躍進に期待しよう!!
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)