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中国語と広東語 その似て非なる存在

中島恵ジャーナリスト

しばらく前、香港駐在記者が書いたあるコラムを読んだ。そこには香港では母国語である広東語が中国語(北京語)にじわじわと押され、中国語の勢力が日に日に増している、とあった。確かにその通りであり、私も何年も前から強く実感している。その記者は広東語はできないが、広東語と中国語の聞き分けはできるそうで、町中では、大陸から訪れた人々の中国語が大音量で響いている、と指摘していた。

しだいに中国語が広東語を侵食するように

香港といえば、ジャッキー・チェンの映画などでもお馴染みの通り、地元の人々は基本的に中国語(北京語)ではなく、中国・広東省を含む南方の方言である広東語を話す。この点は、香港に詳しくない日本人でも「中国とは何か違う言葉だろう」と理解しているのではないかと思う。香港の公用語は英文と中文ということになっているが、人々が日常的に話しているのは広東語だ(ここでいう中文とは書かれたものであり、広東語は話し言葉。広東語で文章を書くこともできるが、中文とは少し異なる)。

しかし、1997年の中国返還以後、中国大陸から大勢の人々が香港に移住し、観光客も年々増加していることから、日々勢力を増しているのが中国語ネイティブスピーカーの存在なのである。つまり、しだいに地元の言葉(広東語)を外の言葉(中国語)が侵食してきているということだ。

「だから何?」といわれそうだが、これは、地元の人々にとっては重大で、ゆゆしき問題である。香港に限らないが、言語はコミュニケーションのひとつの手段、道具であるというだけでなく、その人の思考、つまり考え方や生き方にまで影響を及ぼすものだからだ。

中国語=中国共産党のイメージを持つ人も

「でも、広東語と中国語は親戚みたいなものなんでしょう?」とか「東京に大阪弁を話す人が大量にやってきて、大阪弁が有利になっているみたいな感じなの?」と思われるかもしれないが、まったく違う。香港の人々にとって、中国語は(自分たちとは違う)大陸の人々が話す言語だという認識に加え、中国という国家そのもの、引いては中国共産党の存在をもイメージしてしまうものなのだ。つまり、返還して15年以上経っても、香港人は中国語に対してネガティブなイメージを持ち、ある種の抵抗を感じている。

それは、香港という町に住む人々の中には、かつて中国共産党を嫌い、大陸から逃げてきた人々が多く含まれているという経緯も、関係しているかもしれない。

中国語と広東語が言語的に「どのように異なっているか」については、専門的な文法の話になるので細かい説明は省くが、中国語が4声の声調(音の高低)であるのに対し、広東語は7~9声(指導方法によって異なる)もあり、聞いたときの印象も明らかに異なる。むろん、「遠い親戚」ではあるので、似た発音の単語もあるが、つなげて話すと、まったくわからない。

簡単にいえば、中国語の話者と広東語の話者同士が会話しようとしても、お互いに何を言っているのか、さっぱり理解できず、会話は成立しない。方言といっても、そのくらい異なる言語だ。私自身、大学時代に中国語を学び、卒業して5年経ってから、20代後半のときに広東語を学んだが、発音や単語が違うだけでなく、語順も異なるときがあるのでかなり戸惑った。

かつては中国語は通じなかった

だが、香港の人々は中国語に対して違和感を覚えつつも、急速に中国語をマスターしていっている。そのスピードたるや猛烈な勢いで、こちらのほうが驚いてしまう。香港は1997年の中国返還後、「50年不変」といわれていたが、現実は返還から数年で大きな変貌を遂げた。そのひとつが、大量の中国人流入にともなう社会の変化だった。

私が香港に住んでいた1994~96年ごろは、中国返還前だったということもあるが、町で中国語はまったく通用しなかった。中国語が通じるのはせいぜい高級ホテルのフロントくらいで、外国人の場合は英語で話すのが当たり前だった。つたない広東語で話すと英語で返事をされ、中国語を話すと、怪訝な顔さえされたものだ。

しかし、近年の変化はすさまじい。学校で「中国語」を教えるようになったことが大きいが、冒頭の記者が体験したように、中国語は香港中の至るところから24時間、いつでも聞こえるようになり、その分、英語が鳴りをひそめた。

中国語ができなければ仕事にならない

中国語が最も目立つのは貴金属店や化粧品店、ブランドショップだ。そこでは「我がもの顔」の中国人たちが、当然のごとく母国語である中国語で普通に買い物をしている。応対する香港人は中国語をマスターし、中国語で商品を勧めるなど、接客している。コーヒーショップやレストランでも同様で、その波はタクシーにも及んでいる。私も、香港の化粧品店で物色しているとよく声を掛けられるが、そのときの言葉は必ず中国語だ。

ホワイトカラーのビジネスマンの世界でも同様で、中国語ができなければ、条件のよい、まともな仕事に就くことはできなくなった。私の香港留学時代のルームメイトは、当時、中国語は「ニーハオ」と「シエシエ」しか言えなかったし、勉強する気もまったくなかったが、今では流暢にしゃべり、仕事で中国にも出張し、商談までこなしてくる。

多くの香港人が「中国語シフト」を強化している姿を見ると、その変わり身の早さに舌を巻くが、だからといって、彼らが考え方、生き方の面でも妥協し、「中国語」や「中国」を許容しているかといえば、そうではないだろう。10年先のことはわからないし、それは香港人が自分自身で決めることだが、今はあくまでも飯を食うタネとして習得した外国語、それが中国語だということなのだろう。

中国返還以後、香港の外見はすっかり変わってしまったが、それでもまだ、香港という町では、中国語はそうした位置づけにあるのではないか、と私は思っている。

ジャーナリスト

なかじま・けい ジャーナリスト。著書は最新刊から順に「日本のなかの中国」「中国人が日本を買う理由」「いま中国人は中国をこう見る」(日経プレミア)、「中国人のお金の使い道」(PHP新書)、「中国人は見ている。」「日本の『中国人』社会」「なぜ中国人は財布を持たないのか」「中国人の誤解 日本人の誤解」「中国人エリートは日本人をこう見る」(以上、日経プレミア)、「なぜ中国人は日本のトイレの虜になるのか?」「中国人エリートは日本をめざす」(以上、中央公論新社)、「『爆買い』後、彼らはどこに向かうのか」「中国人富裕層はなぜ『日本の老舗』が好きなのか」(以上、プレジデント社)など多数。主に中国を取材。

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