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[高校野球]あの夏の記憶/「奇跡のバックホーム」を演出した? 沢村幸明(熊本工)

楊順行スポーツライター
リニューアル前のオールド甲子園。懐かしいですね(写真:岡沢克郎/アフロ)

『奇跡のバックホーム

 1996年夏の決勝。松山商(愛媛)の右翼手・矢野勝嗣が、熊本工のサヨナラ優勝を阻止する、補殺を記録した美しいバックホームを指す。熊本工は2対3と絶体絶命の9回2死走者なしから、沢村幸明が同点ホームランを放って押し返すと、延長10回裏は1死満塁。ここで本多大介の当たりは、実況のアナウンサーさえ「いったぁ!」と絶叫するほどの飛距離。少なくとも、サヨナラ優勝犠飛には十分だ。だが、直前に守備固めで入っていた松山商のライト・矢野は、いったんバックしながら浜風に押し戻された打球に懸命に前進。捕球すると、その勢いのまま「どうせサヨナラなら、ダイレクトで放ってやれ」と捕手の石丸裕次郎に放物線の矢を放った。それがまさに、いま滑り込んできた三走・星子崇の胸元へのストライク。(中略)九死に一生を得た松山商は11回表、その矢野の二塁打をきっかけに3点を追加し、そのまま優勝を飾っている。(後略)』

3対2のままならふつうの試合

 これ、『甲辞園』https://www.bbm-japan.com/_st/s16777855という書籍からの抜粋。この夏に発行される第2版もお手伝いをしたので、興味のある方はぜひ、よろしくお願いします。ともかくも、球史に残る劇的な試合だ。だがそもそも、松山商がすんなりと9回で勝っていれば、起こるはずもなかったのである。1点差の9回2死から、沢村幸明が同点ホームランを打っていなければ、だ。そして驚くべきことに、このときの沢村は、入学半年にも満たない1年生だった。

 96年8月21日。第78回全国高校野球選手権決勝は、松山商が3対2と1点リードして、熊本工の9回裏も2死走者なし。松山商はあとアウトひとつで、27年ぶり5回目の優勝である。熊本工の打席には、1年生の沢村。ただし、ナミの1年生じゃない。八代六中時代に全国制覇。2学年上の兄は八代工在学中だが、甲子園に出るには熊本工、と兄の誘いを振り切って強豪に進んだ。同学年35人ほどはボールにさわれず、基礎トレーニングに明け暮れるなか、一人だけ上級生にまじって練習することを許されると4月中には試合に出はじめ、5月にはレギュラーに定着。1年生としては、元巨人の緒方耕一以来、12年ぶりのことだったという。

 県大会の成績を見れば、「だれもアイツを1年生とは思っていない」のもわかる。17打数9安打の打率は、三番に座る本多大介の5割をしのぐし、なにより5試合で11打点はダントツだ。熊本大会決勝でも3安打5打点で、熊本工・田中久幸監督は「あの勝負強さは天下一品」と手放しだ。 

 もっとも、甲子園ではやや元気がない。初戦こそ2安打したものの、続く3試合は無安打。ただ、「テレビを見ていた方から、“ボールを見すぎている。もっと積極的に、なんなら初球から”といわれたこともあって」というのは後年、話を聞いたときの沢村だ。準決勝では、積極性を取り戻して貴重な2点タイムリー。決勝でも2回に内野安打1本と復調気配だ。とはいえ9回2死、アウトになればゲームセットの場面で、1年生の打席である。

「前の2人が三振でアウトで、ネクストでは“自分も三振するわけにはいかない”と。それには積極的にいこう、とにかく芯に当てよう、と最低限のことを考えていました。最後の打者にはなりたくないけど、大きいのとか、ヒットを打とうではなく、とにかく芯に当てよう、と」

 ストレートなら初球からいく、変化球なら手を出さないと決めていた沢村への、その、初球。松山商の2年生・新田浩貴が、様子見でアウトコースに外したはずのまっすぐが、ややシュート回転して内に入ってきた。バットが迷いなく走る。ライナー性の打球がレフトポール際へ。一瞬のち、マウンド上の新田はヒザを折り、しゃがみ込んでいた。9回2死走者なしから、試合を振り出しに戻す一発……。沢村は回想する。

「打球が低かったので、フェンス直撃かと思ったんですが、最短距離で入ってくれました。初球……いま考えるとゾッとしますが、もし外にはずれたボールだったら結果は違ったと思います」

松坂世代が社会人野球監督に

 ただ沢村は、同点弾の歓喜より、延長11回の守備で犯したミスの悔恨が大きいという。矢野のバックホームで、サヨナラ初優勝を阻止された直後の11回表だ。優勝を確信したはずが、奇跡のバックホームでアウト。

「セーフだろう、なんでだよ……ベンチはちょっと放心状態で、守備につくまで間がありましたね。僕もショックを引きずりながら、レフトの守備位置に向かいました。それがまた、松山商アルプスの目の前ですし、ファインプレーの矢野さんから攻撃が始まる、というのも野球の流れですね」

 もやもやしたまま守備についた沢村を、矢野の打球が襲う。一瞬立ち遅れた沢村は、グラブに当てはしたが捕りきれず、矢野は二塁へ(記録は二塁打)。こうなると、「映画“ジョーズ”で、サメがしのびよってくる音楽のように」(田中監督)流れは完全に松山商だ。この回決定的な3点を奪い、熊本工は3回目の決勝進出でまたも大旗を目前に敗退することになる。

 1年生でこの夏を経験した沢村は、この後一度も甲子園に戻れなかった。3年だった98年の夏、熊本の決勝まで進んだのが最高。98年といえば、松坂大輔(現西武)の横浜が春夏連覇を達成した年だ。つまり沢村は、松坂世代。進学した法政大では、横浜の連覇の主力・後藤武敏(元横浜ほか)とチームメイトになった。ときには、甲子園の話もした。全国制覇5回、横浜野球の精密な細かさに驚き、激戦区・神奈川県で勝ち抜く難易度を思った。それがあるから、全国の舞台でも力を発揮できるのだ、とも。

「あのバックホームにしても、翌日の新聞で銀傘の上から撮った写真を見ると、完全にアウトでした。名ジャッジですし、あの場面であのプレーができる松山商の矢野さん、またぎりぎりまでミットを動かさなかった捕手の石丸さんもすごいと思いますね。逆にこちらは、あの11回の守備をやり直したい……」

 法政大を経て、2003年に入社した日本通運では主力として活躍し、都市対抗10年連続出場も果たした。15年まで現役を続けたあと社業に専念し、今季から名門の監督となったが、コロナ禍で実戦から遠ざかるという苦難のスタート。かつて取材したとき、こう話してくれたことを思い出す。

「あの試合で実感したのは、野球は最後までわからないということ。ゲームセットまで、あきらめちゃいけないんですよ」

 そして今季。プレーボールは、これからだ。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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