愛妻を亡くしながらも息子の騎手デビューを前に懸命に立ち直ろうとする元騎手の話
兄の死、そして騎手にいざなってくれた父の死
1975年10月11日、父・弘行、母・智子の間に小林久晃は生を受け、4歳上の姉と1歳上の兄と共に育てられた。サッカー少年だったが、体が大きくならず、中学に入ると力負けした。そんな時、父に「小さい体を生かせる仕事もある」と言われ、ある場所へ連れて行かれた。
「中山競馬場でした。初めて競馬を見て、騎手って格好良いと思いました」
競馬学校の願書も父が取り寄せてくれた。ダメ元で受けると合格。入学後、初めて馬に触れた。
「温かいと感じたのが印象に残っています」
2年生の時、事件が起きた。教官に呼ばれ「落ち着いて話を聞け」と言われた。続いて語られたのは兄が交通事故に遭ったという話だった。
「結局、他界しました。母の憔悴ぶりは酷く、僕まで危険な目に遭ってはマズいと考えると、騎手の道を続けるべきではないのでは、と悩みました」
しかし、志半ばで逝った兄の事を思うと、自ら道を断つのは違うと翻意。再び競馬学校へ戻った。
94年3月には美浦・高橋祥泰厩舎からデビューした。「騎乗場所や厩舎まで、高橋先生が全面的に助けてくれました。減量もあったのでそれなりに勝つことが出来ました」
デビュー週にいきなり初勝利を挙げた。最初の3年で60勝した。私生活での順風満帆ぶりも追い風になっていたと続ける。
「二十歳になるかならないかの頃、山口県萩市出身の一人の女性と知り合いました」
当時、名古屋の大学生だった彼女は、名を優子といった。すぐに惚れ、交際を申し込んだが、1度はフラれた。しかし、その後も友人関係を続けるうち、人柄を分かってくれたのか、再度、告白すると今度は受け入れてくれた。こうして23歳の時から付き合い始めた。2年後には正式に籍を入れ、更に1年後、26歳の時に長男・脩斗が生まれた。
しかし、私生活の順調さとは裏腹、本業は苦戦を強いられるようになっていった。98年にはタイキフラッシュで七夕賞2着、2003年にはティエッチグレースでアイビスサマーダッシュ2着など善戦こそしたが、重賞制覇は出来ないままだった。勝利数は二桁に届かない年が続いた。09年には引退を考え、師匠に相談すると、その話を小耳に挟んだ菊川正達調教師から声がかかった。
「菊川先生に助けていただき、環境を変え、これでダメなら引退しようと思いました」
2010年1月から菊川厩舎所属で奮起。しかし、現実は厳しかった。先頭でゴールを切る事は1度も出来ないまま、1年が終わった。
「逆に未練なく引退出来ました」
11年1月から菊川厩舎で調教助手となった。すると、騎手として鞭を置くのを見届けるようにこの世界にいざなってくれた父・弘行が亡くなった。
「前年の夏から体調を崩し、年が明けてすぐに他界しました。まだ65歳だったのでショックだったし、残された母が心配になりました」
息子が騎手を目指し競馬学校に
それからしばらくして、息子の脩斗から相談を受けた。
「小さい頃は器械体操や水泳をしていたのですが、小学5年の時、いきなり『騎手になりたい』と言い出しました。それまで競馬には全く興味を示していなかったし、そんなに甘くなれる職業ではないので、反対しました」
しかし、優子が「本人がやりたいならやってみれば良い」と一人息子の背中を押したこともあり、小林は折れた。脩斗は乗馬クラブで乗り始めた。6年生になると美浦トレセンの乗馬苑で乗るようになった。最初は「口だけだろう」と思っていた小林の意に反し、脩斗は休む事なく乗り続けた。
「乗馬苑で乗るのが1年遅れになったため、周囲の同級生より下手でした。でも、その分『悔しい』と思ったのか、休まずに乗っていたので、こうなったら出来る限りフォローしてあげようと考えました」
息子の騎乗フォームをビデオで撮り続けた。家に帰るとその映像を見ながら注意すべき個所を指摘した。
小林は久保田貴士厩舎に移った。同厩舎のマリアライトが大活躍をした直後、息子は競馬学校に無事、合格。17年の3月から生徒となった。
「入学式では、妻の優子が『努力を続けなさい』と伝えていました」
愛妻との突然の別れとこれから……
脩斗の学校生活は順調だったが、2年後の19年2月、事態が急転する出来事が起きた。
「優子が体調を崩し、病院で検査をしてもらいました」
がんだった。
抗がん剤治療を開始すると、病状は落ち着いたようにみえた。ところが……。
「4月30日に様態が急変し、病院で診てもらうと転移が見つかりました。この時点で『1年もたないかもしれない』と言われました」
久保田に相談すると「厩舎の事はよいから奥さんについてあげて」と言ってもらえた。他のスタッフも皆、協力態勢をしいてくれた。それでも迷惑をかけられないという気持ちがあったため、2頭だけは調教に騎乗。その後、早退して病院へ駆けつける毎日を送った。
「7月2日には一時退院したけど、20日に再び入院すると、後はせん妄症状が出てしまいました」
意思の疎通が出来なくなったが、仕事を休み、藁をも掴む想いで病院で付き添い続けた。しかし、2か月半後の10月2日、一時、呼吸が止まった。
「急遽、脩斗にも来てもらうと、再び息を吹き返しました」
その晩は父子で病院に泊まり、奇跡を祈った。しかし、待っていたのは過酷な現実だった。
「翌朝、皆に見守られる中で息をひきとりました」
その時の小林は放心状態で涙が出なかったと言う。また、その後も「葬儀だなんだでバタバタするのを言い訳にして、1か月くらいは悲しみから逃げていました」
しかし、一段落すると猛烈な悲しみに襲われるようになった。家の中のどこに何があるのかも分からず、探しながら考えるのは優子の事ばかりだった。出来合いの弁当ばかりの食事をしていると、在りし日の愛妻が作ってくれた料理が思い出された。
「死別期間に準備していたつもりでしたけど、実際に妻に先立たれるのがこんなにも苦しい事だとは思ってもみませんでした」
ふり絞るようにそう語る小林の目頭はみる間に赤く染まる。
それでも現在はまた久保田の下で懸命に仕事をしている。その心境を次のように語る。
「今回の件では競馬学校の教官方もすごく良くしてくれました。融通を利かせてくれ、脩斗を見守ってくれました。お陰で間もなくに迫った3月にデビュー出来ます。脩斗は“お母さん子”だったので、苦しいはずですけど、今はとにかく前に進んでいくしかないという気持ちでいるようです。息子がそうなのに父親がいつまでもくよくよしていてはいけないですからね」
優子が亡くなった後、彼女は自らの症状を全てスマートフォンで調べていた事を、小林は知った。そこにはその症状なら余命がどのくらいといった事も記されていたと言う。
「『皆に申し訳ない』とか『脩斗は大丈夫かな?』とばかり口にしていた理由が分かった気がしました」
そして、次のように続ける。
「それでも彼女の口から弱音が漏れる事はただの1度もありませんでした。それなのに僕がいつまでも悲しんでいたら優子に叱られちゃいます。本当に彼女には感謝しかありません」
故人への感謝の気持ちを胸に懸命に立ち直ろうとする意志をそう語る小林。しかし震える声で「脩斗のデビューを1番楽しみにしていたのに、それを見せてあげられない事だけは、やっぱり残念です」と口にすると、その目は再び真っ赤に染まった。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)