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彼氏がいるのになんか寂しい!彼氏を変えても替えても「なんか寂しい」が解消されない理由とは?

ひとみしょう哲学者・作家・心理コーチ

彼氏とそれなりにラブラブであるにもかかわらず、ふと「なんか寂しい」と感じる人がいます。そのような人の中には、「なんか寂しい」という気持ちを「わがまま」というかたちにして彼氏にぶつける人がいます。「今すぐ会いにきて!」「〇〇を買ってくれないと別れてやる!」「今夜は帰らないで朝まで一緒にいて!」……。

精神科医に相談するのもちょっと・・・

他方、彼氏にわがままを言うことなく、なんか寂しいという気持ちをひとりで抱え続ける人もいます。彼氏に「あなたといてもなんか寂しいのよね」と言うのははばかられる。心療内科で「彼氏がいるのになんか寂しいのです」と精神科医に相談するのもなんかちょっとちがうと思う……。

そうやって「モヤモヤ」をひとりで抱え続けた結果、やがて破局を迎えるケースもありますし、なんか寂しいという気持ちに蓋をし「現実」を優先させてその彼氏と結婚する人もいます。

さて、彼氏がいるのになんか寂しいと感じる、その気持ちとはいったい何なのでしょうか?

以下に一緒に見ていきましょう。

自分を好きになれない人たち

恋愛にもだえ苦しんだ哲学者であるキルケゴールの思想を援用するなら、なんか寂しい気持ちとは、自分のことが好きではない気持ちだといえます。「今のこの自分」と「理想の自分」の乖離(ギャップ)が生み出しているのが、なんか寂しいという気持ちだということです。

たとえば、私のもとにカウンセリングに来たSさんは、母親が過保護であり、子どもの頃から母親の顔色をうかがいつつ、母親の言うとおりに生きてきました。彼女はそのような自分が嫌いだと言います。母親の言いなりになるのではなく、私は私のやりたいことをやりたいようにやる人生を歩みたい……。

あるとき彼女は、包容力と経済力のある年上のヤンチャな男性と偶然出会います。すぐに交際がスタートします。最初のうちは見るもの聞くものすべてに満足し、非常に満たされていたと彼女は言います。しかし、半年ほどたった頃、彼と一緒にいてもなんか寂しいと感じるようになります。

この彼女の場合、じつは彼氏の有無や、彼の彼女に対するふるまいに関係なく、「この自分」と「こうありたい自分」のギャップをずっと感じ続けていたからなんか寂しいのです。交際当初はそのギャップを、現実的なさまざまな新しい刺激がかき消してくれていたのであり、交際が落ち着き日常が戻ってくれば、彼女にとってのかねてからの問題、すなわち「この自分」と「理想の自分」のギャップの大きさが再浮上してきた。だから恋人がいてもなんか寂しいのです。

心療内科で扱っていない気持ち

「理想の自分」とは、キルケゴールによると、私たちの心に宿る「永遠」が、なぜか、その人に見せる気持ちのことです。永遠というのは、神ではないが神につながっている何かです。つまり、言葉や数字で割り切ることのできない気持ちのことです。別の言い方をするなら、科学の心理学を基礎とする心療内科では扱っていない気持ちのことです。

たとえば、親が過保護だという事実は、ほとんどの場合、変えようがないので、その事実を受け入れるしかありません。誰もが頭ではそうわかっています。

しかし、私たちはしばしば、「今の親とは別の親の子どもになりたい」など、全知全能の神でも実現不可能ではないかというようなことを、なぜか「理想」として胸に掲げ、あろうことかそれを追い求めてしまう……。キルケゴールのいう永遠とはそういったものです。

では、そんなものを抱いてしまった心をどうすればいいのでしょうか? キルケゴールなら「使命を知りなさい」と言うかもしれませんが、それは以前ほかの項に書いたので、今回はメルロー=ポンティの哲学にヒントを得たいと思います。

2つの視点を持つ

視点を1つ増やして2つにすることです。すなわち、先のSさんの例で言うなら、Sさんは過保護の母親の立場に立って母親の気持ちを考えてみることです。

母親の立場に立つことなく、自分の立場からのみ母親を眺めると、「過保護にされるのはしんどい」「私は私の人生を歩みたい」と思います。当然でしょう。

しかし、母親の立場に立ってみると、たとえば「なぜ母親は私を過保護にするのか?」という問いが生まれます。やがてその答えがぼんやりと見えてきます。

たとえば母親は子どもの頃、親にほとんど構ってもらえなかったから、自分の子には自分と同じつらい思いをさせたくないと思っているのかもしれません。

あるいは、母親は学歴社会というものを盲信しており、そこからわが子をおちこぼれさせないよう必死になっており、それこそが母親の役割だという揺るぎない信念を持っているのかもしれません。その背景には母親自身が低学歴で苦労したという事実があるのかもしれません(いいとか悪いとかといった話ではなく、そういった事実があるのかもしれません、ということです)。

モヤモヤを問いに変えよう

2つの視点を持てた時、なぜか心が私たちに語りかけてくる永遠が「じつはどのようなものなのか」を、私たちはぼんやりとではあっても理解するようになります。

その必然の結果として、「なんか」というモヤモヤした悩みが消え、具体的な問いと答えが生まれます。

恋人がいるのになんか寂しいという気持ちは、視点を1つ増やすことで具体的な問いに変わります。その当然の帰結として、やがて答えが生まれます。

そのとき、彼氏がいるのになんか寂しいというモヤモヤした気持ちは雲散霧消するのです。

哲学者・作家・心理コーチ

8歳から「なんか寂しいとは何か」について考えはじめる。独学で哲学することに限界を感じ、42歳で大学の哲学科に入学。キルケゴール哲学に出合い「なんか寂しいとは何か」という問いの答えを発見する。その結果、在学中に哲学エッセイ『自分を愛する方法』『希望を生みだす方法』(ともに玄文社)、小説『鈴虫』が出版された。46歳、特待生&首席で卒業。卒業後、中島義道先生主宰の「哲学塾カント」に入塾。キルケゴールなどの哲学を中島義道先生に、ジャック・ラカンとメルロー=ポンティの思想を福田肇先生に教わる(現在も教わっている)。いくつかの学会に所属。人見アカデミーと人見読解塾を主宰している。

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