【「麒麟がくる」コラム】ようやく織田信長が安土城を築城。その天主や城下町はどのようなものだったのか
■やっと安土城築城
大河ドラマ「麒麟がくる」は、少しずつクライマックスを迎えつつあるが、ここに来てようやく安土城(滋賀県近江八幡市)築城の話が持ち上がった。
天正4年(1576)1月、織田信長は丹羽長秀を総普請奉行に任命し、安土城の築城に着手した。そのモデルになったのは、近江六角氏の観音寺城(滋賀県近江八幡市)だったといわれている。
■諸説ある天主の形
現在、安土城の天主は失われ、当時の趣を示しているのは、壮大な石垣の遺構だけである。しかし、焼失前の安土城は、五層七重の天主が聳え立っていたといわれており、まさしく近世城郭の先駆けだった。
フロイスの手になる『日本史』によると、安土城の天主については次のように記されている。
(1)天主は七重からなり、内外共に建築の妙技を尽くして造営された。
(2)内部は、四方に色彩豊かに描かれた肖像たちが壁全面を覆い尽くしていた。
(3)外部は階層ごとに色が分かれ、黒い漆塗りの窓が配された白壁、ある階層は紅く、またある階層は青く、最上階は全て金色であった。
(4)天主は華美な瓦で覆われており、前列の瓦には丸い頭が付けられ、屋根には雄大な怪人面が付けられていた。
フロイスは実物に接したので、記述はかなり具体的である。ただし、安土城の天主は焼失して現存しないため、古くから『日本史』や『安土日記』などの史料によって復元案が提示されてきた。ところが、いまだに定説を見ないのが現状だ。
■焼けた天守の謎
天正10年(1582)6月、織田信長が本能寺の変で横死し、山崎の戦いで明智光秀が討伐された。そして、同年6月15日、安土城の天主およびその周辺の建造物は焼失した。これにより、先述したとおり、当時の安土城を知る手がかりを失ったのだ。
焼失した理由については、次のように諸説ある。
『秀吉事記』『太閤記』によると、明智秀満軍が敗走の際に放火したと伝わる。しかし、秀満は6月15日に坂本城(滋賀県大津市)で堀秀政の軍に包囲されていたので、この説は誤りであると考えられている。
宣教師の記録によると、織田信雄が明智軍の残党を炙り出すため放火したと書かれている。このほかに落雷や土民による放火などの説もあるが、真偽は不明である。
■安土城下の特徴
安土城が優れていたのは、何も天守や石垣だけではない。城下町にも大きな特徴があった。
天正5年(1577)6月、信長は安土城の城下町を新しい商業、交通の拠点とするため、「十三ヵ条の掟書」を発布した(「安土山下町中掟書」)。
信長の経済政策である楽市楽座令の典型であり、非常に有名なものである。ただし、楽市楽座令は、すでに今川氏や六角氏も行っていたので、信長の完全なオリジナルな政策ではない。
本文13ヵ条から成っており、主要な規定は次のとおりである。
第1条――安土の山下町中を楽市と定め、座の特権を廃止し、山下町住人に対する諸課役、諸公事の賦課を免除すること。
第2条――中山道往還の商人は、安土に寄宿すること。
第13条――近江国内の博労の馬売買を山下町に限定するほか、城下町繁栄のための住人の保護や町内の治安、統制に関する条項。
いずれも、安土城下で自由な商業活動を認めるもので、楽市楽座令の典型でもある。
■豊富な内容
信長の楽市楽座令は、ほかにも美濃加納(岐阜市)、近江金森(滋賀県守山市)の例が知られている。しかし、いずれも条文は、3ヵ条と極めて少ない。この「安土山下町中掟書」は13ヵ条にわたっており、もっとも豊富な内容であるといえよう。
さらに「安土山下町中掟書」は、16世紀末から17世紀初頭における、城下町の建設や取締りについての都市法の先駆的なものであると指摘されている。
天正14年(1586)6月、豊臣秀次は八幡山城(滋賀県近江八幡市)下に掟書を発布した。この掟書には、「安土山下町中掟書」の内容がほぼ踏襲されている。秀次は安土城から八幡山城に拠点を移したが、信長の政策基調は継承されたのである。