それでも政治家は変わらないのか…。富山の地方局、執念のリポート「はりぼて」が物語ること
言うまでもないだろうが、『はりぼて』とは、見た目はたいそう立派なのに、実質がまったく伴わない、中味がすかすかのことを意味する。本来であれば、国をつかさどる政治家にもっともふさわしくないというか。遠くにあってほしい言葉にほかならない。
だが、いまの国内の政治状況を鑑みてどうだろうか? 嘘が平気でまかり通る。説明責任を果たすといって説明がされたためしがない。なぜか自分に不都合なことが起きると病気になって雲隠れ。ほとぼりが冷めるといつの間にか議員活動を再開させている。こんなシーンをここ数年でどれだけわたしたちは目にしただろうか?
富山の小さなローカルテレビ局「チューリップテレビ」が制作したドキュメンタリー映画『はりぼて』は、こうしたここ数年の間に日本で起きた政治の腐敗及び、政治家の劣化と居直りの根源に迫った1作といっていい。
ご記憶の方も多いと思うが、2016年、富山市議会では政務活動費の使い方をめぐって次々と不正が発覚。わずか8か月の間に14人の市議会議員が辞職する「辞任ドミノ」が起きた。ちなみに富山県は、有権者に占める自民党員の割合が10年連続日本一。この辞任ドミノは、“富山市議会のドン”と呼ばれていた自民党の重鎮議員から始まった。
その不正を最初にスクープして報道したのが「チューリップテレビ」だ。『はりぼて』には、そのことの始まりから、事の顛末、そして現在までが記録されている。
不可解な市議会議員報酬10万円アップが事件の引き金
今回の映画の監督を務めたのは、チューリップテレビの「富山市議会政務活動費不正取材チーム」の中心メンバーだった五百旗頭幸男と砂沢智史。まず、二人は不正発覚前のころの自分たちをこう振り返る。
五百旗頭「私が報道部に配属されたのは2005年のこと。ですから2016年は、報道にきて11年目で、その年の4月からニュース番組のキャスターを任されて、その直後にこの不正事件が起きたんですね。
当時、私の担当は県政でした。市政のメインの担当ではなかった。なので、密に取材していたわけではない。ただ、報道キャスターとして要所で市議会には行っていて、会見やぶら下がり取材には出向いていたんですね。
で、その前は県警を、その前は高岡支局で県西部の行政を、その前はスポーツを担当していたこともあった。富山県全般の一通りを取材する中で、なんとなくこうした不正がありそうな行政の歪みを肌感覚としてつかめていた。
ある意味、僕としては記者としていろいろなものが見えてきたとき、飛び込んできたのがこの富山市議会の政務活動費不正問題でした」
砂沢「僕は五百旗頭と同じ年に入社をしているんですけど、事件が発覚する1年前の2015年に報道部に配属されたんですよ。
報道に配属される前は営業を4年間やって、次は編成のデスク勤務。それで報道部なので、記者としては遅いといいますか。年齢は30半ばになってましたけど、報道記者としては新人で、ようやく1年経って仕事になれはじめてきたとき、いきなりこの事件に当たったといった感じですね」
この富山市議会議員による政務活動費の不正を突き止めるきっかけになったのは、その前に市民の意見不要で強硬に進められた市議会議員の報酬アップ。このことが実質的な引き金になって、政務活動費問題へつながっていく。
砂沢「この議員報酬のアップというのは急に出てきた話で。その話の前段で議員の定数を減らす議論があった。たしか現行から2人ぐらい減らすと。そうなると議員に支払う報酬の総額は当然減る。それでここからがおかしな話なんですけど、議員の定数を減らす分、その分の報酬を議員ひとりひとりの報酬に上乗せするべきという話になっていった」
つまり、議員定数を減らす意味がない。市政の支出としては変わらない方向に進んでいったという。
砂沢「そうなんです。おそらく議会側としては、まず自分たちが議会を改革していることを示す。それを半ばアリバイに、報酬アップという別件を通過させようとする。世間的にはまったくつじつまがあっていない。でも、議会としてはつじつまをあわせているつもりなんですよね(笑)」
五百旗頭「砂沢は市政担当だったので、中に食い込んでいますから、この時点で詳しく背景も含めておかしい事態を把握したと思います。
一方、僕はたぶん砂沢ほど深く把握していなかった。でもそれでも、この富山市議会の報酬アップは唐突に言い出したなと思いました。しかも、その報酬をアップさせる根拠が非常に乏しい。上げるからには理由が必要だと思うんですけど、それがわからない。それで、これはもう記者の感覚的なもので、『ちょっとおかしいぞ』と思いましたね」
まさにこの議員たちのやり方は「はりぼて」というか目くらまし。このことで砂沢や五百旗頭らチューリップテレビの報道部は市政に目を向けていくことになる。
五百旗頭「そもそも僕は当初、議会よりも市側、市長をはじめとする行政サイドに『やりたい放題だな』という印象を持っていたんですよ。
というのも、東日本大震災の後、震災瓦礫の処理の問題があり、被災地以外の地方自治体が瓦礫を受け入れることになった。それで、富山市が手を挙げて、岩手県の瓦礫を処理することになったんです。
このとき、地元の市民で反対運動が起きていた。それで、僕らもいろいろと調べたら、その時点でもう十分、岩手県内で処理できることになっていた。それをわざわざこっちに持ってきて、燃やして処理するという。まあ、市としては国から下りてくる補助金が目的なんですけど、だったら、それはそれで説明するべき。ただ、そんなことお構いなしで決めてしまった。それぐらい市長の権力は絶大だったんです。
だから、この市議会の横暴なやり方が出てきたとき、その時点ではわからないですけど、議会と市長の関係もかなり親密なんだろうなと。ゆえに横暴が許される。このころぐらいから、富山市には市民不在ともいうべき、市長を中心とする当局による横柄な運営があるのではないかと疑問を抱くようになりました」
この政務活動費の不正使用の前段となる報酬アップの一部始終は作品にも克明に記録されている。五百旗頭の予感した通り、市民不在、議場で市民が反対を叫ぶ中、市長と自民党会派を中心とした議員の間で、あれよあれよという間に決まっていく。
砂沢「1番、おかしいなと思ったのは、有識者でつくられた審議会が議会の要望を受けて10万円の議員報酬アップをのんだ後ですね。
そもそも普通の会社で給与のベースアップっていきなり10万も上がらないじゃないですか。10万円といったら何十年もかけて上がっていくものですよね。それで、どんな根拠があるんだと、もう一度、きちんと事細かに調べたら、さしたる説明もなく、1回目の審議会の議論で、10万円引き上げること自体は全員一致で可決している。それはおかしいだろうと。
それで、審議会のメンバーというのが、普通にこの人たちのスケジュールを合わせて招集しての会議をするだけでも時間がかかりそうな有識者の方ばかり。なのに、その翌週には2回目の審議会が決まっていた(笑)。そこでも問題ないとされて、翌月の議会で法案を提出して可決して終わり。たいして議論もされないまま可決される流れが完全にできていた。
それで、審議会のメンバーを調べたら、自民党に近しい関係の人が半数近くを占めている。これをみて、おかしいと思わない記者はたぶん誰もいなかったと思います」
五百旗頭「細かく取材していくと、これは明らかにもうシナリオができてるだろうと思えてしまう。実際は、なにがあったかはわからない。でも、議会側の要望を市側がそんなに簡単にのむということはなにかあると思わざるをえない。議会は自民党が最大会派ですから、そこが受け入れないと市側も通したいことが承認されないわけで。そこで、なにかもちつもたれつの関係が透けてみえてきますよね」
富山市政をほぼノーチェックだった自分たちにも反省点がある
このズブズブなもたれあいは作品の映像を見るだけでも伝わってくる。こうしたなれあいは、議員報酬の問題が出る前、取材過程で感じることはなかったのだろうか?
五百旗頭「それが、僕らの反省点であり、責任を痛感しているところなんですけど、それまで富山市政に関してほぼノーチェックだったんですよね」
砂沢「メディアの目が入っていなかった。議会自体にも市長の政治手法にも関心も注目も集まっていなかった」
五百旗頭「チェックの目がまったく効いていない。だから、ある意味、やりたい放題のようなことが許されて、彼らを増長させてしまったところがあるんですよね」
砂沢「この報酬問題があったとき、ある意味、富山市政の本性みたいなところが露わになった。そこから初めて各メディアが市政に関心をもって取材を始めたところがあります」
ここは報道機関として大いに反省したところと二人は明かす。
五百旗頭「自分たちを正当化するわけではないんですけど、ローカルメディアはそれほどマンパワーがあるわけではない。チューリップテレビでいえば社員は70人です。どうしても取材に割ける人員は限られます。だから、どちらかというとすぐに結果が出るようなニュースにとびつきがちなんですよね。
たとえば、今回の議員報酬アップのようなことは、はた目からみると、おかしいことなんですけど、議会を通過しているわけで不正ではないわけです。こういう問題よりも、たとえば本人がすんなり事実を認めているような事件にどうしてもいってしまう。
こちらが細かく調べていってようやく事の真相がわかるような問題に、ローカルメディアは残念ながらそこまで時間も体力も資金もかけられない。割く労力もない。だから、どこか及び腰になってしまう。それはチューリップテレビだけに限らず往々にしてあると思います」
政務活動費を洗う地道な作業から世間を揺らがすスクープへ
ただ、その中、チューリップテレビはこのおかしな議員報酬アップの問題から、市議会議員の政務活動費をひとつひとつ領収書から用途まで調べる地道な作業に入る。
砂沢「議員報酬アップに疑問を抱いたんですけど、そのとき、そもそも議員の活動の実態を自分はまったく知らないなと思ったんですよ。日頃、どんな活動をして、なにをしているのかわからない。
どうすれば分かるのかと考えて、議員本人に密着取材するのも手ですけど、効率が悪いし、おそらく表向きの顔しかみることができない。そこで、政務活動費にたどり着いた。これには使い道がすべて記載されている。それを見れば議員の実態を知る手がかりになるんじゃないかと思ったんです。
それで政務活動費の文書を情報公開請求で取り寄せたんです。コピー代金1枚10円かかって経費もかさむんですけどね(苦笑)。
その文書が出てくるのが、実は議員報酬アップの条例が可決した直後(笑)。確か1万5,000枚近くの文書がどんと届いた。
それで調べ始めたんですけど、はじめは何も出てこない。ただ、映画でも触れられていますけど、情報公開請求したこと自体が今までなかったことで、これはあってはならないことですけど、行政サイドから市議会議員にうちが調べていることが漏えいした。こちらとしては通常は不利に働くわけですけど、このときはチューリップテレビが政務活動費を調べていることが関係者に広まっていって、あるとき、不正の噂の情報が入ってきたんですよ。
それで、その噂に関係するところを重点的に調べることにした。するとおかしな使用が出てきた。その手口がわかると、芋づる式とまではいかないんですけど、同じような手口に次々と気づくわけです。それでまずうちが報じたわけですけど、そのあとは、もうほかのメディアもはじめ、新たな手口を見つけて独自のスクープを出すことの連続。各社スクープ合戦をしながら、どんどん市議会議員の実態が暴かれていったという感じですね」
こうして富山市議会議員の政務活動費の不正が次々と発覚。わずか8ヶ月の間に14人の議員が辞職する事態となった。その渦中はどんなものだったのだろうか?
砂沢「市議会の議事堂が戦場のようになっていましたね。いつどこのメディアがどの議員を追及するか分からない。だから、すごく議場が殺気立っていました」
一方、この喧騒を五百旗頭は少し冷めた目でみていたという。
五百旗頭「議員報酬の引き上げに関しては直接取材をしていたりもしたんですけど、砂沢が政務活動費の不正のスクープを放っていたころは、実は別のドキュメンタリー番組を作っているころで、直前までアメリカに取材に行ったりしていたんです。
それで、ニュースキャスターなので、毎日のニュースには携わるんですけど、ほぼ現場にはいけなかった。なので、正直、もどかしい気持ちはありました。
ただ、そのことで逆にちょっと事件を引いてみることができた。最初、チューリップテレビが、次々と不正を暴いてスクープを連発したんですけど、さきほど砂沢がいったようにそのあとは他社も追随していった。
そうなってくるとちょっと違和感を覚え始めるというか。市民のためという目的意識を感じられなくなって、各社のメンツで、スクープ合戦を繰り広げているだけのように目に映り始めたんです。
もちろん不正を暴くことは悪いことじゃない。やるべきことで政治家を正さないといけない。でも、なにか僕は市民不在のスクープ合戦に見えてきたんですよね。果たして、これは市民のためになっているのかと」
このきわめて客観的な視点が実は今回の映画「はりぼて」の前身になるテレビドキュメンタリー、そして映画へとつながる。
五百旗頭「さきほどふれた別の番組を作り終えたとき、この富山市議会の辞任ドミノについての番組を作るんだろうなと思っていて、おそらく自分に担当が回ってくるかなと思っていたんですよね。
予想通り、『次はこれだぞ』と番組のディレクターを任された。そのとき、通常ならばこうした調査報道や権力を追及する番組というのは、おうおうにしてメディアの手柄をある種、誇張して伝えてしまうところがあると思うんですよ。『こういう悪いやつらがいて、不正を暴いたぞ。どうだ』といったように。
でも、自分はやはり一歩引いてシビアにスクープ合戦をみていたこともあって、そういう形にはしたくなかった。わたしたち報道側も反省すべき点がないわけではない。
不正をした議員たちは確かに悪い。でも、彼らにも何か憎めないところがあったんですよね。悪いことしているんだけど、人としての弱さからやってしまったというか。自分たちも同じ立場や状況にあったら、果たして手を出していなかったかなと。
やはり誰しも聖人君子ではないし、人に言えないことはある。人間には強さもあれば弱さもある。そういう彼らの人間臭いところをきっちり描こうと思ったんです。ごりごりの調査報道番組にはしたくなかった。イメージとしては悲喜劇。
だからこそ記者と対峙するところや、質問のやりとりを長目に時間をとって、そのときの空気感や議員の表情の変化、言葉の間の取り方、そこを大切にしました。そこになにか事の本質が詰まってるんじゃないかと思ったんです」
政務活動費について議員に問うと、はじめは否定。しかし、もはや言い逃れできなくなると観念したように辞任を表明する。それからは、潔白といっていた議員にやはり不正が発覚して辞任に追い込まれる。その繰り返し。頭を下げて謝罪する議員をみていると、これだけ細かく各報道機関が調べ始めているのに、「バレないで済むとこの人たちは思っていたのだろうか」とあきれ果て、もはや笑うしかない。確かにコメディのように滑稽に見えてくる。
五百旗頭「見ていて割り切れないと思うんです。議員たちが本当の悪だったら、見てるほうは、『ああ、よくぞ退治してくれた』と思うかもしれない。でも、実際はそうではなくて、彼らにもやっぱり人間らしいいい一面がある。それも含めて提示すべきじゃないかなという考えはありました」
ただ、話が進むにつれ、何とも言えない虚しさに苛まれる。
五百旗頭「たぶんはじめは笑っていられるんですけど、だんだん笑えなくなってくるんですよね。『笑っている場合じゃないよ』と」
その通り、笑えなくなるのだ。というのも辞任ドミノ後、その反省をもとに富山市議会は全国一厳しいとされる政務活動費の使い方についての条例を制定。しかし、そこから不正が発覚した議員が辞職せず居座るようになる。これはどこかの国政の議員でもみた光景である。
なぜこういうことになるのだろうか?
砂沢「これは僕の個人的な考えですけど、2016年に辞任ドミノがあって、翌年の4月に市議会議員の選挙があったんですよ。そのとき、不正で辞職した議員が1人だけ立候補したんです。陣営も勝てるかもしれないと思っていたし、僕ももしかしたら勝つかもと思っていたんですけど、結果としては負けたんですね。
たぶん、この結果を前にしたとき、たとえ着服した額が小さかろうが大きかろうが、辞職してしまうと非を自分で認めたことになってもうどうにもならない。それだったら辞職しないほうが得だといった意識が議員の中で広まった気がします。だから、非を認めて謝るけど、辞めない。辞めなければその地位にい続けることができるから」
五百旗頭「それがいつの間にかスタンダードになってしまった」
明らかに不正をしているのに辞めない。これがまかり通っていく現実。その光景は、国政へも重なる。
国のトップが間違っていても非を認めない。説明責任を果たさない。そうなると各地方自治体の議員までこうなっていってしまうのではないかとまで考えてしまう。
五百旗頭「辞めたら負けといった発想ですよね。議員というのは本来市民の代表じゃないですか。国会議員は国民の代表だし、市議会議員だったら市民の代表。その原点が失われている。市民から信頼を得られない状況になったら、やはり身を引いてしかるべき。でも、それが当然というモラルさえ失われかけている。
ほんとうに、由々しき状況が日本全国にまん延しているんじゃないかと思うんですよね。国政の縮図ではないかと考えざるをえない」
富山のことだが、どこかいまの日本の政治の縮図
確かに国会や国の記者会見のどこかでみたような光景が次々と出てくる。
五百旗頭「この映画は、富山のことを取り上げてるんですけど、やはりどこかいまの日本の政治の縮図で。
たとえば、森市長の記者に対する会見でのあの横柄な対応と『制度ですから』で片付けてしまうところとかは、菅官房長官の会見にも通ずる。あまり聞かれたくない質問に対する『それは当たらないと思います』といってすぐにコミュニケーションを完全に遮断してしまうあれです。記者としてはもうそれ以上何も聞けなくなる、ある意味、最強の話法ですよね。それをローカルの首長も真似したかどうかわからないですけど、やっている。それが許されてしまっている」
砂沢「ああなってしまうと、だいたいこう返されるんだろうなとわかるから、質問できないんですよね。追及してもそれ以上出てこないことがわかっているので。
でも、記者という立場を離れて、一市民として、あなたは市長なんだからこれらの不正をどう思っているのか、議会が立ちいかなくなっていることはどう考えているのか、答えてほしい。それで、聞くわけなんですけど、でもやはりまるで他人事の答えしかかえってこない」
ほかにも、チューリップテレビが政務活動費を調べていることを、議員に漏らしてしまった議会事務局長や、教育長の役人らは、現政権と官僚の関係及び、「忖度」というを言葉を想起せずにはいられない。森友学園問題などで露わになっている最終的に一番弱いところにしわ寄せがいく、トカゲの尻尾切りの構図もみえてくる。
五百旗頭「あの議会事務局長しかり、教育長しかり、みなさん善人なんです。決して根っからの悪人ではない。だけど、組織の論理でああいうことをやってしまう。ジャーナリストの金平(茂紀)さんが寄稿文で指摘しているんですけど、ハンナ・アーレントがアイヒマン裁判で言った『凡庸な悪』ですよね」
砂沢「そうなんですよ。悪人が政治家になったわけではないんです。結果的に、旧態依然とした市議会に入って、しばらく時間がたったときに、つい、とか、たぶんこのぐらいは大丈夫じゃないかみたいなところからずるずると手を染めていってしまった。
どこかでたがが外れてしまった。なぜ、そうなったのか?そこは単に議員が悪いだけで片付けないでわたしたちの問題として考えないといけないところもあると思います」
議員や役人の責任追及から、自らの会社「チューリップテレビ」の在り方にも刃を向ける
自らに対しての問題意識。これは作品で示されている。不正を働いた議員や役人を追及するだけではなく、作品は、最後、自分たちチューリップテレビへも刃を向ける。
五百旗頭「この作品のひとつのキーワードに、やはり『忖度』があると思うんです。ただ、これはここに登場する役人たちに限ったことではない。
私たちメディアも今問われていることだと思うんです。不必要に自主規制したり、忖度して動いてしまう。その根っこにあるのは、やはり恐れだったり、自分の身を守りたい。保身ですよね。メディアも他人事ではない。
いま、世間からメディアが叩かれることが多いですよね。組織ジャーナリズムだから、結局、あなたたち安全地帯から取材して報じているだけでは?といった見方されているような気がする。議員と同じでリスクも責任も負わない存在のように見られている。
だから、僕らは今回の映画の中においては、そこは覚悟を示さないとダメだと思ったんですよね。自分たちを安全地帯に入れて守っていては何も伝わらない。自分たちの存在をいい面も悪い面も包み隠さずにみせないとダメだろうと」
その象徴ともいうべきシーンが終盤にある五百旗頭がある決断をするシーンだ。
五百旗頭「なぜ、あのシーンを入れたのかとやはり聞かれるんですけど、これは申し訳ないんですけど、みなさんで考えてほしい。
だから、それ以上のことは言えないんですけど、1番考えてもらいたいのは、この映画が社内的にNGにならず、世に問えたということ。僕はもう社を後にすることを決めていたので大したことないんですけど、残った砂沢とプロデューサーの服部(寿久)の頑張りというか。彼らの信念と覚悟によって、この映画は守られて、こうして世に送り出すことができた。そこの意味をすごく考えてもらいたい。
同業他社の人は開口一番絶対言うんですよ。『うちではできません、こんなの無理です』と。でも、それっておかしいと僕は思っている。結局、それはやろうとしてないだけではないかと。
チューリップテレビに残った今回の映画のスタッフは覚悟を決めたんですね。そこは感じ取ってもらいたい気持ちがあります。僕は去った身ですけど、監督の1人としてそこはすごく思ってます」
確かになかなか自分の会社に刃を向けるというのはしづらい。また、そのことを会社側も許容することはなかなか難しいだろう。でも、チューリップテレビは相互が覚悟を決めたのだ。
五百旗頭「自分の会社のことを悪く描くなんてどういうことだっていう意見はもちろん内側からもありますし、外からもある。だけど、僕たちはすごく今の報道機関の現状に対して危機感を持っていました。マスメディアは権力を持つ強い存在と称されますけど、チューリップテレビは富山の最後発の局で、他の会社からばかにされてきた立場でもあったので、そんなことは1度も思ったことはなかった。いつか見返してやるぞ、という精神でやってきたところがあります。
今回の調査報道でいろいろな賞もいただきましたけど、それでおごってしまったら、もう自分たちはおしまい。自分たちを美化してはいけない。
そんなたいそうな存在じゃない。自分たちを正義にして、安全地帯にいさせて、不正を追及した市議たちのことは悪く描く。それではダメ。チューリップテレビもいい面、悪い面があって、常に矛盾をはらんでいるところがある。そこをさらさないとダメだと思ったんです。
ただ、実は、当初、あのシーンを入れるかどうか僕自身は懐疑的だったんですよ。
でも、あるとき、砂沢と撮影と編集を担当した西田(豊和)と話したとき、『この映画においてやはり、自分たちの今置かれている状況を含めた葛藤を描かないとダメだ。これこそ命題だ』と、それで『この会社の抱える矛盾や、組織人と記者としての狭間の葛藤を伝えられるのはやはり五百旗頭しかいない』と二人がいってくれたんですね。
その会話のあと、あのシーンは記録されているんですけど、僕自身の感情が制御できなくなっていて、ドキュメンタリーにおいてはそれなりのシーンになっていると思ったんですけど、自分にとっては醜態をさらしているので、映像をプレビューしたときに絶対使いたくないと思ったんです。
でも、一緒にみていた砂沢と西田は『これは絶対に入れないとダメだ』といった。その後、服部も含めたスタッフと数日の間、議論をして、最終的には自分たちの弱い部分をきちんと描くことで、これから会社が前に進めるんじゃないかという結論に至ってあのシーンが入っています」
これは作品の根幹に関わることなので詳しくは触れられないが、この五百旗頭の決断と、それに対するチューリップテレビの答えが示すのは、報道人としてひとりの人間としての「覚悟」だ。
社員わずか70名の小さなローカル局でも、これだけのことができる。このことが意味することはひじょうに大きい。それは現在のメディアへの叱咤激励であり、ひとつの希望でもあるといっていいかもしれない。
この作品にきっちりと記録された、チューリップテレビの調査報道。このようないつか実を結ぶ地道な草の根の取材がどんどんほかへと波及していくことを個人としては望まずにはいられない。さて、この政治ドキュメンタリー『はりぼて』にあなたは何を見い出すだろうか?
「はりぼて」
監督:五百旗頭幸男 砂沢智史
撮影・編集:西田豊和
プロデューサー:服部寿人
語り:山根基世 声の出演:佐久田脩
音楽:田渕夏海 音楽プロデューサー:矢崎裕行
8月16日(日)より渋谷・ユーロスペースほか全国順次公開中
場面写真は(c) チューリップテレビ