盧泰愚・全斗煥…故人となった両大統領への反応に透ける、韓国社会の「赦し」の感覚
ここ一か月の間に、韓国の現代史に大きな影響を与えた二人の元大統領が続けて世を去った。79年にクーデターで権力を簒奪した全斗煥(チョン・ドゥファン)と、全氏の後を継ぎ87年の民主化以降初の大統領となった盧泰愚(ノ・テウ)の両氏だ。
だが、陸軍士官学校の同期で、クーデターと翌80年の『5.18光州民主化運動』弾圧に深く関わった二人への韓国市民の評価は大きく異なる。それは生前の過ちに対する「悔悟」の差から来ている。そしてこれは、日本に対する韓国市民の感覚につながると筆者は考えている。
●「国家葬」の盧泰愚
10月26日、88歳の盧泰愚元大統領の死去が伝えられるや、韓国社会では盧氏の「評価」をめぐる論争が起きた。これは「功過」、つまり功績と過ちを分けて考えるべきという立場と、償わなかった過ちの方が大きい、という意見の対立といえる。
盧泰愚氏の功は、大きく二つに分けられる。
一つ目は体制の転換をスムーズに成し遂げた点だ。全斗煥の軍事独裁政権期(1979年末〜88年2月)に政権のナンバー2として中心部に居続けた盧氏は、87年6月の民主化宣言(6.29宣言)を政府側の人物として発表し、直接選挙で争われることになった同年12月の大統領選で当選する。
そして、前任の全斗煥政権との差別化に乗り出すことになる。政治における軍人の影響力を削ぐと共に、やはり全政権下で統廃合されるなど不当な干渉を受けていたメディアの自由化を進めた。
さらに経済成長が続く中で、大規模な住宅の供給も行うなど中産層の生活向上にも努めた。88年にはソウル五輪も成功させる。
これらの点から軍事政権から文民政府(93年に発足した、非軍人出身の金泳三[キム・ヨンサム]政権をこう呼ぶ)への橋渡しを安定的に行ったと評される(だが本人は自伝の中で「全政権清算」については非常に消極的な立場を明かしている)。
二つ目の功としては、「北方外交」「北方政策」と呼ばれた外交が挙げられる。ソ連崩壊と東西冷戦の終結という転換期の中で、中ソを代表とする共産圏の国家と次々に国交を結んだ。その数は45か国にのぼり、韓国の国際的地位を急速に高めた。
これは同時に、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)との関係性において圧倒的な優位に立つことにつながった。
北朝鮮への敵視を止めた88年の「7.7宣言」から91年の国連への南北同時加盟、そして同年の米軍の戦術核撤去と『南北非核化宣言』そして『南北基本合意書』に至るまで、韓国主導の南北関係を確立した。これは後の金大中(キム・デジュン)政権下における「包容政策」に受け継がれている。
【参考記事】[全訳]民族自存と統一繁栄のための大統領特別宣言(7.7宣言、1988年7月7日盧泰愚大統領)
https://www.thenewstance.com/news/articleView.html?idxno=3101
一方の「過」についてはやはり、79年のクーデターと1980年の光州民主化運動の弾圧の中心人物であった点が挙げられる。
盧元大統領は3年前から、息子の盧載憲(ノ・ジェホン)弁護士を弾圧の現場であった光州市に訪問させ、光州民主化運動の遺家族に謝罪を行っている。
だが十数年間病床にあったとはいえ、本人の口から謝罪はなく、真相究明にも協力しなかった部分は決して看過できないという意見も根強い。
こうした議論のかたわら、盧元大統領の葬儀は政府による「国家葬」で営まれた。葬儀委員長を務めた金富謙(キム・ブギョム)国務総理は弔辞で以下のように述べた。
私たちは国家葬に反対する国民たちの気持ちも充分に理解します。どんな謝罪でも5.18と民主化の過程で犠牲となった英霊たちをすべて慰労することができないことを私たちは知っています。
しかし全ての歴史は現在の歴史です。過去は葬られるのではなく、私たちの共同体が共に作り上げていく歴史として、常に生きています。
今日の告別式は故人を哀悼する場であると共に、新たな歴史、真実の歴史、和解と統合の歴史に向かう省察の場となるべきです。
●全斗煥の死には批判一色
盧泰愚氏の死を聞き「涙を流した」とされる全斗煥元大統領は、11月23日に90歳で死去した。しかし、前述したような盧元大統領の時とは異なり、功過をめぐる議論はほぼ無かった。
理由は、選挙で当選した盧氏とは違い、全氏が権力を握る過程が違法なクーデターであった上に、大統領在任期間にメディアの統廃合や思想矯正施設の運営を行い、民主化運動を強く弾圧し続けるなど、一貫して民主主義と逆行する政治を続けてきたからに他ならない。
そして何よりも、民主化を求める市民に対し完全武装の特殊部隊をぶつけ、200人以上の市民が犠牲となった80年5月の「光州民主化運動」弾圧が大きな影響を及ぼしている。
全氏は当時、最高権力者として事に臨んだにもかかわらず、弾圧に対する謝罪を直接・間接的に一度も行っていない。
全氏はさらに、2017年には回顧録を通じ、当時の鎮圧側(戒厳軍)によるヘリ射撃を証言した人物の名誉を毀損する記述を行ったとして裁判中の身だった。
裁判に出席する際に「光州の人々に謝罪しないのか」と聞く取材陣に「なんだと!」と声を荒げる姿は全国に報じられ、反省しない印象をさらに強めていた。なお裁判の一審は有罪で、年内に二審判決があると見られていたが、死亡により裁判は終了となった。
一方の青瓦台(大統領府)も「国家葬」はおろか、弔花も弔問も行わないなど、盧氏とは徹底した差別化をはかった。
●両氏の「差」
功過を飲み込んだ上で「国家葬」が行われた盧氏と、議論の余地すらなかった全氏。この差は謝罪の有無にある。
だが、話はそう簡単ではなかった。盧氏の「国家葬」の賛否をめぐり文政権側にも議論があったからだ。筆者の取材によれば、盧氏の遺族側や光州民主化運動の遺家族といった人々と政府との間の意思疎通があり、しっかりと判断した上での決定だったこと分かっている。
特に生前、盧氏が謝罪の意をいかに表明していたかが焦点となっていた。息子を光州に送り謝罪させた背景に盧氏の意思が明確にはたらいていたのか、結果としてこの点で異論の余地がなかったことが「国家葬」を決める契機になった。
また、盧氏・全氏ともに1997年の最高裁判決で内乱目的殺人罪などが確定した後、恩赦となっているが、その際に日本円で200億円以上の追徴金が課せられていた。
盧氏はこれを完済したものの、全氏はまだ100億円近い金額が未納となっていた。にもかかわらず全氏はゴルフを楽しみ、「全財産は29万ウォン(約3万円)」と言ってはばからなかった。
また、両氏の遺族の反応も対照的だった。盧氏の息子、盧載憲弁護士は10月26日に出した声明の中で、盧泰愚氏の以下のような遺言を公開した。
自らに与えられた運命を謙虚にありのまま受け止め、偉大な大韓民国と国民のために奉仕することができて、とても有り難く光栄だった。
自分なりに最善の努力を果たしたが、それでも不足している点や私の過誤に対し深い容赦を望む。
自身の生涯に成し遂げられなかった南北韓の平和統一が次世代によって必ず成し遂げられることを願う。
一方、全氏の妻・李順子(イ・スンジャ)氏は27日の告別式で「夫の在任中に苦痛を受けた方達に、夫に代わって深い謝罪を申し上げたい」と述べた。
この短い一文の解釈をどう解釈すればよいのか。答えは全氏の在任中に大統領府高官を務めた人物によりもたらされた。「5.18(光州民主化運動)に対するものではない」というのがそれだ。
全氏は1980年9月1日に大統領に就任しているため、同年5月に行った光州市民への武力弾圧は謝罪の対象に含まれない、ということだ。
●受け入れられる「謝罪」がある
筆者が韓国に来たのは1999年であるため、両大統領の時代を生きた訳ではない。韓国政治や南北関係に関する取材する過程で両氏の時代に一定の知識を得ていたとはいえ、ここまで両氏の評価が克明に分かれる姿は、非常に興味深かった。
特に、盧元大統領への「赦(ゆる)し」を、文在寅政権が政治的な負担を抱えてまで行った点は印象的だった。
盧氏が死去してすぐ、ネット上でたくさんの知識人が発言をしたが、その中には「国家葬」に反対する声が少なくなかった。こうした人々は進歩派と呼ばれる文政権の支持層でもある。
だが、文政権は「和解と統合の歴史のため」(前出の弔辞より)赦しを選択し、結果としてこれは大きな混乱もなく韓国社会に受け入れられ、盧氏の「評価」となった。盧氏の告別式後に行われたある世論調査では、55.5%が「国家葬」を支持するとされた。
もちろん、政治的な目論見もあった。盧泰愚氏を赦し、全斗煥氏を赦さないという「価値判断」を進歩派が行うことで、韓国政治の主流を進歩派が占めようという意識がそれだ。
ただ、前出の弔辞の中で「在任時の多くの功績よりも私たちの心を動かしたものは、故人が遺言を通じ、国民達に過去の過ちに対する謝罪と容赦を求める意を明かしたことだ」とあるように、心からの謝罪なくして「赦し」も無かったことは明白だ。
いずれにせよ筆者は、こうした過程を見ながら昨今の日韓関係を考えざるを得なかった。
今や日本の主流層となった韓国に批判的な人々は、「どんな謝罪をしても、いくら謝罪をしても韓国は受け入れない」と思うかもしれないが、盧氏のケースは韓国進歩派や韓国社会が受け入れる謝罪が明確に存在するという事実を浮き彫りにしたからだ。
折しも日韓間の喫緊の解決課題である徴用工裁判問題においては、「被告企業の謝罪(日本政府ではない)」が大きな争点の一つになっている。
盧泰愚・全斗煥という両大統領に対する韓国社会の今回の反応は、徴用工裁判の被告企業はもちろん、忘れた頃に被害者の心を傷つける発言を行う日本の右派政治家たちに必要なものが何かを知る、格好の材料ではないだろうか。