【深掘り「鎌倉殿の13人」】大問題となった、北条朝時がやらかした艶書事件とは
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今回の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、北条朝時が艶書事件を起こし、父の義時から怒られていた。その事件は何だったのか、詳しく掘り下げてみよう。
■北条朝時とは
北条朝時が義時の子として誕生したのは、建久4年(1193)のことである。母は、比企朝宗の娘の姫の前だった。その後、比企能員の変が勃発し、義時と姫の前は離縁した。今は知る由もないが、朝時は寂しい幼年時代を送ったのだろう。
朝時の兄が泰時だが、その母は側室の阿波局(出自、生没年ともに不詳)だった。それゆえ、正室の子だった朝時は、次男でありながらも嫡男とみなされたという説がある。
■艶書事件の概要
艶書事件が露見したのは、建暦2年(1212)5月のことだった。その前年、佐渡守親康の娘が京都から鎌倉に下向した。娘は、源実朝の官女として仕えることになっていた。
朝時は娘を大変気に入り、艶書(ラブレター)を送り付けたが、一向に相手にされなかった。そこで、ある日の深夜、朝時は娘を強引に連れ去るという暴挙に出たのである。こんなことが許されるはずがない。
この事件が露見したのは、先述のとおり建暦2年(1212)のことだった。事件を知った実朝は激怒し、義時も朝時が子とはいえ義絶した。朝時は反省の意をあらわすため駿河国富士郡に下向し、蟄居したという。義時の子だったので、処分は穏便に済まされたのだろう。
朝時が許されたのは約1年後のことで、和田合戦(和田義盛と北条義時の戦い)では大いに活躍した。建保3年(1215)になって、ようやく朝時は駿河国富士郡から鎌倉に戻ったのである。
■まとめ
ドラマの中では、事件が露見したあとの義時の怒りが印象的だったが、実際に処分を下したのは実朝だった。いかに義時の威勢が増したとはいえ、実朝に政治力がなかったわけではなかった。その辺りには、注意を払うべきだろう。