Yahoo!ニュース

クライフの「ドリームチーム2」はなぜ破綻した?伝説の終焉に見えるバルサの本質

小宮良之スポーツライター・小説家
バルサで天才的な采配を見せたヨハン・クライフ(写真:Action Images/アフロ)

ドリームチームの伝説

 世界で最も美しく、革新的なチームを作ったのは誰か――。天才・ヨハン・クライフがその一人なのは間違いない。

「無様に勝つな。美しく散れ!」

 クライフがFCバルセロナを率いた時に打ち出した哲学は、勝負のすべてがプロサッカー界においては矛盾をはらんでいる。しかし、それだけになお高潔さがあった。それが正義とされたのは、クライフが美しさを求めながら勝利した点にあるだろう。彼らは美しく、強かった。

 クライフは430試合を指揮し、83敗している。勝率は6割を切る。つまり常勝ではなかったが、勝負どころで鮮やかだった。国内リーグでは3度も最終節で逆転優勝を飾っているのだ。

 1990-91シーズンから1993-94シーズンまでリーガエスパニョーラを4連覇。1991-92シーズンには、欧州チャンピオンズカップ(現行の欧州チャンピオンズリーグ)で初優勝を遂げた。彼らは「ドリームチーム」と呼ばれ、伝説となった。

 では、伝説はなぜピリオドを打つことになったのか?

 クライフはその実践的な理論でチームを作り、それはもっと長く続いてもおかしくなかった。若手選手は台頭していた。世界的な選手も獲得したはずだった。

 栄光の終焉に、バルサの本質が見える――。

ドリームチームの本質

「ラ・マシアこそ、バルサだ」

 クライフはそう言って、下部組織ラ・マシアを重んじ、一貫した人材育成を根本にした。結果、ジョゼップ・グアルディオラのような選手が台頭し、グアルディオラは指導者としても、クライフを受け継ぐことになる。ラ・マシアから同じボールゲーム理論を奉じ、敵を圧倒するポゼッションと波状攻撃を可能にし、バルサの礎を築いた。

 一方、クライフは当代一流の攻撃センスのある外国人選手を抜け目なく配置していた。ミカエル・ラウドルップ、ロナウド・クーマン、フリスト・ストイチコフ、そしてロマーリオ。選手時代からのクライフの名声は高く、選手を引き寄せ、各ポジションの世界トップレベルを擁していたのだ。

 この両輪が、ドリームチームの本質だった。

ドリームチーム2の船出

 クライフは1994-95シーズンで無冠に終わった時、外国人選手たちを総入れ替えしている。一つの時代が終わったことは間違いなかった。多くの選手が年を取っていたのだ。

 1995-96シーズンには、「ドリームチーム2」を始動した。代わりにルイス・フィーゴ、ゲオルゲ・ハジ、ロベルト・プロシネツキ、メホ・コドロ、ジカ・ポペスクなど各国代表を次々に獲得。ネームバリューだけを見れば勝るとも劣らなかった。

 しかし、不具合によるノッキングは歴然だった。

 例えば、プロシネツキは世界有数の優れたボールプレーヤーだったが、ダイレクトプレーが信条のバルサではボールを持ちすぎてしまい、リズムが合わなかった。「バルカンのマラドーナ」と言われたハジも同様だろう。いわゆるオールドタイプの10番プレーヤーは、バルサのシステムに順応できなかった。

 後年、ファン・ロマン・リケルメが入団した時にも、同じような現象が起こっている。

 また、ストライカーのポジションも、似たような欠陥を生じさせた。

 旧ユーゴスラビア代表でボスニア・ヘルツェゴビナ代表でもあったコドロは、リーガ得点ランキング2位の称号をひっさげ、移籍していた。しかし、点取り屋コドロの動きは周りとかみ合わなかった。そもそも、ストライカー特有のエゴイズムは、バルサのプレースタイルとは相性が悪い。それはグアルディオラが監督だった時代でも同じで、サミュエル・エトー、ズラタン・イブラヒモビッチなどのゴールゲッターが折り合えなかった。共存できたダビド・ビジャは左サイドでのプレーに活路を求められる適応力があったのだ。

ドリームチーム2の方向性

 そして、サッカーは常に相手があるスポーツである。

 クライフのバルサに悩まされてきた敵は、徹底的な研究をした。そして弱点も見つけている。それは守りに回った時の脆弱さであり、カウンターを確立してゴールを脅かすようになった。

 驚くべきことに、クライフは守備力を高めるよりも、よりボールを支配する方向性を強めていた。ベテランの域に入っていたGKアンドニ・スビサレータを戦力外とし、足技はフィールドプレーヤーと同等のレベルというカルレス・ブスケッツを登用した。

「GKはリベロ」

 それは完全なボールプレーを目指すクライフにとってのお題目で、理想とするサッカーの完成形になるはずだったと言われる。

 しかしながらブスケッツのゴールキーピング技術は、1部で攻撃を受けられるほど高くなかった。結局はポカを連発。ドリブルを取られ、失点する場面まで出た。

 それは、「ドリームチーム2」の挫折を象徴する場面だった。

 クライフも、自殺行為的な攻撃を仕掛け続けたわけではない。否定していたダブルボランチを採用することで、攻守のバランスをどうにか保とうとしていた。守備の脆さで、肝心の攻撃力も極端に落ちていたからだ。

 しかし、それによって華々しさも失われた。

クライフ・チルドレンたち

 クライフは、ラ・マシアの若手を多く投入することによって、新しい時代を作ろうとしていたのだろう。皮肉にも最後になった1995-96シーズン、最も多くのラ・マシア組がピッチに立っている。

 GKブスケッツ、SBセルジ・バルファン、アルベルト・フェレール、MFギジェルモ・アモール、グアルディオラ、ロジェール、イバン・デ・ラ・ペーニャ、FWオスカル…彼らは主力の一人だった。さらに、アルベルト・セラーデス、トニ・ベラマサン、ルイス・カレーラス(サガン鳥栖を率いた)、ファン・カルロス・モレーノ、キケ・アルバレス、そして息子のジョルディ・クライフ。他に数分程度の選手が5,6人いる。

 しかし、当時のバルサフロントは、クライフ・チルドレンが成熟するのを待てなかった。

バルサ解任後、クライフは監督を引き受けていない

 96年5月、クライフはジョアン・ガスパール副会長と議論に及び、解任された。次の試合、カンプ・ノウはクライフを支持。その後、天才指揮官は監督を引き受けていない。

「バルサのようなチームを作るのはどこでもできるものではない」

 クライフはそう言って、辞退した。

 一方、クライフ・チルドレンたちは居場所を失い、次々に新天地を求めていった。ボビー・ロブソン、ルイス・ファン・ハールの二人の監督は、戦い方や哲学が違い過ぎた。特異なサッカーを仕込まれたチルドレンは、適応できなかったのである。

 もしクライフが続投し、デ・ラ・ペーニャのような選手の力を最大限に引き出していたら――。それは、たら・れば、でしかない。

 しかし、その検証は今につながる。

 実力派と言われる外国人選手がバルサでは簡単に順応できず、ラ・マシアから育った選手がスタイル維持には欠かせない。どちらがうまくいかなくても、バルサのサッカーはノッキングする。二つの両輪がかみ合った時、伝説的なプレーを見せる。その危うさに、バルサの魅力はあるのだ。

スポーツライター・小説家

1972年、横浜生まれ。大学卒業後にスペインのバルセロナに渡り、スポーツライターに。語学力を駆使して五輪、W杯を現地取材後、06年に帰国。競技者と心を通わすインタビューに定評がある。著書は20冊以上で『導かれし者』(角川文庫)『アンチ・ドロップアウト』(集英社)。『ラストシュート 絆を忘れない』(角川文庫)で小説家デビューし、2020年12月には『氷上のフェニックス』(角川文庫)を刊行。他にTBS『情熱大陸』テレビ東京『フットブレイン』TOKYO FM『Athelete Beat』『クロノス』NHK『スポーツ大陸』『サンデースポーツ』で特集企画、出演。「JFA100周年感謝表彰」を受賞。

小宮良之の最近の記事