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【深掘り「鎌倉殿の13人」】源頼朝の娘・大姫が心を痛めた、これだけの理由

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
源頼朝の娘・大姫が心を痛めた理由とは?(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の24回目では、源頼朝の娘・大姫が心を痛めた様子を描いていた。なぜ大姫が心を痛めたのか、その辺りを詳しく掘り下げてみよう。

■木曽義高との結婚

 以仁王の「打倒平家」の令旨に応じて、各地の武将が兵を挙げた。源頼朝はもちろんのこと、一族の木曽義仲も兵を挙げた。先に入京を果たしたのは義仲だったが、頼朝の関係が懸念された。

 寿永2年(1183)3月、義仲は頼朝と和睦すべく、嫡男の義高を鎌倉に送ることにした。義高は単なる人質ではなく、頼朝の娘・大姫と将来的に結婚することになっていた。義高は当時11歳の少年だったが、人質として鎌倉へ向かったのである。

 義仲は後継者の義高を人質としたのだから、相当な覚悟だった。頼朝も義仲の決意を尊重し、娘の大姫との結婚を前提として義高を迎えた。互いの長男・長女が婚約をしたのだから、その関係が強固になったことは間違いない。

■義高の死

 寿永3年(1184)1月20日、義仲は源義経、同範頼に敗れ、無念の最期を遂げた。義仲が討たれた以上、義高が殺されるのも時間の問題だった。

 同年4月21日、ついに頼朝は義高を討とうと考えた。それを知った女房は、大姫にそのことを密かに伝えたので、義高は女房の姿に身をやつして脱出したのである。

 その際、義高と同年齢だった海野幸氏は、義高の居所で朝から晩まで一人で双六に興じるなどし、義高が逃げる時間稼ぎをした。頼朝に仕える者たちも、平静を装って協力したが、夜になって義高の出奔が露見したのである。

 激怒した頼朝は幸氏を拘禁し、堀親氏に義高を討つように命じた。これを聞いた大姫は大変驚き、魂が抜けたような状態になったと伝わる。義高が討たれるのは、時間の問題だった。

 同年4月26日、堀親次の郎従の藤内光澄が鎌倉に戻り、義高を入間河原(埼玉県入間市)で討ったと報告した。義高の死は秘密にされていたが、やがて大姫の耳にも入った。

 義高の死を知った大姫は憔悴しきって、食事も水も喉を通らなくなった。大姫の様子を見た母の北条政子だけでなく、殿中に仕える男女も心を痛めた。その後、政子は頼朝に光澄の処分を迫ったので、光澄は処刑された。

■翻弄される大姫

 義高の没後も、大姫は翻弄された。元暦元年(1184)8月、後白河法皇は頼朝との関係をいっそう強固にするため、当時、摂政だった近衛基通と大姫を結婚させようと目論んだ。しかし、頼朝は九条兼実とのパイプを重視したので、この話を丁重に断った。

 ただし、頼朝は朝廷とのさらなる関係の強化を望んでいた。建久2年(1191)、頼朝は後鳥羽天皇に大姫を入内させようと画策した。その翌年、後白河法皇が亡くなったので、大姫が輿入れする話は消滅した。

 建久5年(1194)8月、一条高能(能保の子)が鎌倉に下向した。高能は頼朝の甥で(能保の妻は頼朝の同母姉妹)、身分的にも申し分がなかった。

 この頃、塞ぎがちだった大姫も回復傾向にあったので、頼朝と政子は高能との縁談を取りまとめようと考えた。しかし、大姫は縁談を強く拒絶したので、この話もなくなったのである。

■まとめ

 このように大姫は義高とのつらい別れを経験し、心をすっかり病んでしまった。一方の頼朝は、大姫の心情を知ってか知らでか、公家や天皇などとの縁談を進めようとした。

 しかし、縁談話はこれで終わりではなく、さらに急展開を見せた。この点は改めて取り上げることにしよう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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