「倒れても本望」の小池知事は、“寝技”は使わない
急がれた公務復帰
政治家としての意地を見せたということになる。体調不良のために6月22日夜から入院していた小池百合子東京都知事が7月2日に登庁し、会見を開いた。当初は「安静を理由に中止」とも言われたが、定例より2時間遅れの午後4時から正式の記者会見として行われた。
小池知事は6月30日に退院後、1日には新型コロナウイルス対応のモニタリング会議に参加。リモートにもかかわらず、大きなマスクで顔をほぼ隠していた。目が虚ろだったのは、体調がまだ回復していない証拠だろう。2日の会見にもマスク着用で現れたが、アイメイクをしていた点が前日とは異なる。要するに、この日から公務に完全復帰したということだ。
「明日明後日もまた土曜日曜で、人の出も多くなるのではないかということも想像できます。そういう中におきまして、今日この場で皆さま方にさまざまお伝えしたいと思いまして、本日このような形をとらせていただきました」
かみしめるように話す言葉の語尾は、かすれて消え入るようだった。目のあたりに見えるやつれが、体調がまだ回復していないことが伺える。
人生の転機
その小池知事が、絞り出すような声で話した言葉がある。それが、「どこかでばたっと倒れているかもしれませんが、それも本望だと思ってやりぬいていきたい」というフレーズだ。それを小池知事の病身をおして命を賭けるがごとくの決意のように見た人もいれば、そうでない人もいた。いずれにしてもそのフレーズは、大きな話題になった。
だが小池知事のこの本望は、にわかに出てきたものではない。小池知事はその人生において何度も修羅場をかいくぐってきた。最初の修羅場は1969年の衆議院選挙に父・勇二郎氏で惨敗した時だろう。勇二郎氏は旧兵庫2区から出馬し、7074票しか獲れずに落選した。さらに事業も傾き、不渡りを出して倒産し、芦屋の実家も抵当にとられてしまった。
政治への強い執着
父の落選が決まった時、17歳の高校生だった小池知事は泣きじゃくっていたという。しかし待ち受ける運命にただ怯えるばかりだったのは、この時が最初で最後だったのではないか。その後、カイロ大学を卒業し、通訳を経てキャスターを務め、1992年の参議院選で日本新党で比例区に党首の細川護熙氏に次ぐ2位を獲得して当選した。
これについて日本新党設立に参加したある関係者は、「当初の比例2位は、プロテニスプレイヤーの佐藤直子氏だった。それを小池氏が自分の順位とひっくり返した」と語っている。当選圏外の9位となった佐藤氏は激怒して出馬をとりやめたが、他人の怒りを買っても政治家のポジションを得ることは、当時の小池知事にとって本望だったのだろう。
また2005年の郵政選挙では、郵政民営化に反対した小林興起氏の刺客として、それまでの兵庫県第6区を捨てて東京都第10区に出馬し当選。さらに2016年の都知事選に自民党の反対を押し切って出馬したのも、小池知事にとっては本望だったに違いない。
本望のために立ち上がった
しかし今回はこれまでとは違うのだ。オリンピック・パラリンピックという一大事業の開催地の責任者であり、日本の首都の最高責任者でもある。そのためになんとか新型コロナウイルス感染症を抑えなくてはならないが、いったんは増加が抑えられたように見えた新規感染者数は、6月20日頃から再度増加に転じている。このままでは最悪の状況でオリパラを迎えることになりかねない。
加えて長年寄り添ってくれた愛犬が死に、4年前に自らが作った都民ファーストの会は、都議選でかなり議席を減らすことになりそうだ。一方で議席を伸ばす自民党都連は自分の味方ではなく、4年前に蜜月だった公明党は是々非々を貫きあてにならない。おそらく小池知事にとって、ここにきて最大の政治生命の危機を感じたに違いない。
本来ならもっと長く静養すべきところを早々に公務復帰したのは、小池知事が生き抜くために“今こそ立ち上がらなければならない”と決意したからだろう。政治家たる者はたいてい「自分の政治信条のためなら死んでもいい」と思うが、小池知事にはさしたる「政治信条」がない。いや、政治生命こそ小池知事にとっての政治信条といえるのだ。
だからパラドックスに聞こえるが、「政治生命のためなら死んでもいい」ということになる。「倒れても本望」というのは決してドラマチックなものではない。陽の当たる政治家以外の道を断固拒否する小池知事の意地なのだ。