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2016ドラフト 都立高出身初の1位指名・佐々木千隼を生んだ日野高校とは?

楊順行スポーツライター

強豪私学がひしめく東京で、都立が甲子園に出場するのは至難の業だ。1980年夏には国立が西東京大会を制覇し、都立の第1号として甲子園に出場したときは、“都立の星・クニコウ”ブームに沸いた。99年夏に東東京から初出場したのは城東で、2001年夏にも2度目の出場を果たした。さらに03年夏、やはり東東京から雪谷……だが、この4回ぽっきりである。

日野は99年夏にベスト16となると、01年秋、のちプロ入りする横川雄介(元巨人)らがいて都大会でベスト8。翌年センバツの21世紀枠東京都推薦校となったあたりから、都立の星と呼ばれ始めた。09年夏には西東京の準決勝まで進み、横綱・日大三と接戦を演じる。秋も同じく都大会4強で、2度目の21世紀枠候補となった。そして12年夏は、私立の強豪・早稲田実と日大鶴ヶ丘を連破してのベスト8。このときのエースにして五番打者が、佐々木千隼だ。早稲田実との延長13回、日大鶴ヶ丘戦と、いずれも完投している。

日野を率いるのは、08年夏に就任した嶋田雅之監督だ。桜美林高から日体大を経て、3年間中学校の講師。その間、母校の女子ソフトボール部を率いていた。教師として採用になると八丈、砂川、小平西と都立の野球部を指導。前2校は都大会ベスト16まで、夏の大会未勝利だった小平西は初勝利まで導いている。

初めて日野の練習を目にしたとき、「それはもう、宝の山に見えた」と嶋田はいう。たとえば当時2年だった小室正人(元JX-ENEOS)は、遠投すれば軽く110メートル。嶋田によると、「こんなチームを教えさせてくれるのなら、行くところまで行っちゃうよ、という水準でした」。行くところ……いうまでもなく、甲子園である。

甲子園に肉薄する都立の星

「高校時代は素行が悪く(笑)、僕が先生というと同級生にいまでも笑われますね」

という嶋田が指導者を志したのは、教育実習のときに母校の女子ソフトボール部を指導したことが理由のひとつにある。部員のほとんどは、素人のレベル。そこを一から教えると、みるみるうまくなるのがわかる。負けてばかりだった練習試合にも勝つ。それが、たまらなくおもしろかった。

高校教師として最初に赴任した八丈でもそうだった。何人かほかの部から引っ張り、部員不足をやりくりしてのスタート。むろん、中学時代に実績のある選手など皆無で、島内にはほかに高校がないから、嶋田を含め、野球のたしなみがある大人を集めて紅白戦をやるのが実戦練習だ。練習試合は、年に一度の遠征で集中的にやるしかない。それでも、6年の在任中に東東京のベスト16まで引きあげた。

「中学時代になんの実績もないふつうの子でも、センスがなくても、3年間練習すればなんとかなる。八丈での経験は、そのことに気づかせてくれました。砂川でもそうでしたし、次の小平西は、僕が行くまで夏の西東京大会は創部以来16連敗中で、“東京最弱”といわれていたんですよ。練習はジャージのヤツもいれば、3年生は茶髪といったチーム。それでも、そのときの2年生にやる気のある子が多く、翌年の夏には、創部以来初めて勝ちました」

そういう指導歴だから、日野が宝の山に見えたというわけだ。

その日野ではまず、下級生にも同じ練習をさせてチャンスを与えた。部員数の多い日野ではB、Cチームも編成し、それぞれが活発に練習試合を行うが、パフォーマンス次第でABCをひんぱんに入れ替える。これで、学年に関係ない切磋琢磨を促進した。さらに、

「体は鍛えてナンボ。たとえば“へろへろティー”というメニューは、1分間に35球連続でティーを打ち、20カウントする間にもも上げ、これを3セット。ほかにもしんどいメニューはいろいろありますよ。ボールが見える間は技術練習をしますが、暗くなったら各自が居残りでウエイトをやったり。冬場はランメニューやサーキット……」(嶋田)

野球の試合は三すくみ

豊富な練習は、徐々に実を結ぶ。小室が2年だった07年夏には國學院久我山を撃破し、08年夏は早稲田実と好勝負。

「そういう実績のおかげで、“甲子園には行きたいけど、強豪私立ではちょっと……”という子どもたちが継続して入学してくれるんです」

とは嶋田だが、日野が一定以上のチーム力を継続できるのはそのためだ。09年夏は準決勝に進出し、敗れはしたが日大三と6対7という互角の戦い。佐々木らの年代が日野に入学するのはこの翌年度で、なるほど、都立の星というブランドが受け継がれていく。

現在行われている秋季東京都大会は、明日が3回戦(対東京実)。ここを勝てば日野はベスト8で、つまり都立初のセンバツ出場確定までマジック4というわけだ。嶋田はいう。

「野球の試合はじゃんけんのようなもの。それなりの力があれば三すくみで、どっちが勝ってもおかしくない。甲子園に行くには、ベスト4からが勝負でしょうね。そのためには、確かにきつい練習をします。私も毎朝5時起きで、朝練習につき合っている。ただ、みんないっしょにきつい練習をすることで、一体感も生まれてくる。そしてやるべきことをやって試合で集中すれば、必然的にいい試合ができる。そうすれば、“三すくみ”なんです」

日野の試合ではチャンスになると、観客席にはRCサクセションのノリのいい名曲『雨上がりの夜空に』をベースにした応援歌が流れる。09年5月に、OBである忌野清志郎さんが逝去。嶋田監督が「清四郎さんの曲で応援歌をつくれるのは、日野しかない」と吹奏楽部に要請し、完成したものだ。野球部員と嶋田監督で練り上げた、歌詞のしめくくりはこう。

♪こんなとこで 1本打っちゃうなんて

甲子園に オレたち行っちゃうなんて

実際に甲子園に行ったら……最後のフレーズは、変える予定らしい。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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