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【深掘り「鎌倉殿の13人」】源実朝の渡宋計画が大失敗に終わった経緯

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
鎌倉の由比ヶ浜から材木座海岸方向の風景。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は、源実朝の渡宋計画を放映していた。ところが、計画は見事に失敗した。その経過について、詳しく掘り下げてみよう。

■陳和卿とは

 源実朝は、突如として渡宋計画を実行に移そうと考えた。そのきっかけを作ったのは、陳和卿なる人物であるが、いったいどのような人物だったのだろうか。

 陳和卿は南宋(現在の中国)の工人で、平安時代の末期に日本へとやって来た(生没年不詳)。治承4年(1180)、平重衡が東大寺を焼き討ちしたので、陳和卿は僧の重源のもと、大仏および大仏殿の復興に従事した。

 建久6年(1195)3月に東大寺の再建供養式典が催されると、源頼朝は陳和卿に面会を申し入れた。ところが、頼朝が罪業深い人物との理由で断られたというエピソードがある。

■源実朝と陳和卿

 建保4年(1216)6月、陳和卿は源実朝への面会を申し入れた。というのも、実朝は権化(仏・菩薩が人々を救済するために、この世に仮の姿となって現れること)の再誕であるという理由によるものだった。

 陳和卿は実朝と面会した際、3度拝んで号泣したという。その理由は、かつて実朝が宋の育王山の長老であり、陳和卿はその門弟だったというのである。実は5年前、実朝は同じことを夢の中で高僧から告げられていた。

 実朝は夢のことを誰にも話していなかったので、陳和卿の言葉を信じて信任したのである。こうして同年11月、実朝は突如として渡宋を思い付き、陳和卿に船の建造を命じた。

 驚いたのは、北条義時と大江広元である。2人は必死になって、実朝に宋への渡航を思い止まるよう説得した。しかし、実朝の意志は固く、渡宋計画を中止することはなかったのである。

■まとめ

 建保5年(1217)4月、船が完成したので由比ガ浜に浮かべたが、船は一向に進むことがなかった。船はそのまま砂浜で朽ち果てた。その後、陳和卿がどうなったのかも不明である。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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