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「チャーズ」の跡はどうなっているか? 抹殺された長春のジェノサイド

遠藤誉中国問題グローバル研究所所長、筑波大学名誉教授、理学博士
1947~48年にかけて長春を食糧封鎖した包囲網の鉄条網の残骸

 2000年頃まで長春の「チャーズ」の跡は餓死体が多いため土地開発ができず放置されていたが、2000年に入ると地下を掘ることが可能になり、習近平政権になってから「完全抹殺」が加速した。

◆半世紀後も包囲網の鉄条網がそのまま朽ちて放棄

 6月27日のコラム<許せない習近平の歴史改ざん_もう一つのジェノサイド「チャーズ」>に書いたように、当時国民党が支配していた長春市は、1947年晩秋から共産党軍によって包囲され、食糧封鎖を受けた。長春市が丸ごと鉄条網で囲まれたのだが、その鉄条網が約半世紀たってもなお、そのまま放置されているのを発見した。

 大学で仕事をするようになってから、何度も中国には戻っているが、長春に戻る勇気だけはなかった。しかし1994年、意を決して、ちょうど1948年にチャーズに入った日に長春に行き、チャーズの跡を見に行った。

 そこには、あまりに衝撃的な光景が広がっていた。

 私たちを餓死させたあの鉄条網の一部が、朽ち果てた柵の棒とともに放置されたままになっていたのだ。

 下に示すのが、その一部である。 

1994年9月20日、筆者撮影
1994年9月20日、筆者撮影

 そんなものが残っているはずがないだろうと思われるかもしれない。

 しかし、まちがいなく「チャーズ」がそこにあったという証拠写真はまだある。

 これらは全て、1994年9月20日に筆者が撮影したもので、世界に一枚しかない証拠写真だ。文末に書くように、今は開発されて、証拠は全て抹殺されている。

◆包囲網の内外を明確に区別

 1948年に筆者がチャーズに入った時に、共産党軍側の解放区とチャーズを区切る鉄条網があった場所には、なんと「白いフェンス」が設置されていた。

 あの時と同じように、鉄条網の代わりに「白いフェンス」を境として、フェンスの外側は繁華街になっており、道路も舗装されている。そこでは車も勢いよく行きかい、小綺麗なホテルまでがある。

 しかし、その内側、チャーズだった場所は、まるでゴミ捨て場のようになっていた。その写真を以下に示す。

1994年9月20日、筆者撮影
1994年9月20日、筆者撮影

 あのとき、難民が唯一の飲み水を得た井戸は小さく塞がれてコンクリートの蓋がしてあるものの、そのまま残っていた。その中には死体が浮いていた、あの井戸だ。

◆共産党軍側のチャーズの門の跡にはポリスボックスが

 おまけに、なんと、共産党軍側のチャーズの柵門があった場所には、ポリスボックスが設置されているではないか。

1994年9月20日、筆者撮影
1994年9月20日、筆者撮影

 チャーズの柵門は、言うならば検閲所だ。関所のようなものである。

 その「検閲」と類似の役割をする警察の、ポリスボックスが同じ役割の柵門の場所に設置してあるというのは、どういうことなのか。

 半世紀経っても役割を変えずに残っている。

 この大地の時間の流れ方は何なのだ。

 チャーズの内側の地面の下には無数の餓死体が埋まっているから、そこを掘り起こして工事をすることができないのは分かるが、あのときの包囲網の役割をそのまま残しているというのが中国の時間の動き方だ。

 それにしても、チャーズが間違いなく、そこにあったのだということを証明する写真ではないか。

◆餓死体の山があった場所は人間の大小便にまみれていた

 最も衝撃的だったのは、拙著『もうひとつのジェノサイド 長春の惨劇「チャーズ」』のp.151で書いた「死体の山」があった場所の跡だった。

 なんと、そこは人間の糞尿にまみれていたのだ。

 野ざらしのトイレのようにして使われていたのである。誰も見たくないだろうから、最も「鮮明ではない写真」をあえて掲載する。

1994年9月20日、筆者撮影
1994年9月20日、筆者撮影

 筆者はそこで人間の大人が用を足す姿も見ている。その場面を撮影したら殺されるかもしれないという、「闇の世界」がそこには漂っていた。

 どういうことなのだ?

 なぜ、なぜ餓死体を隠ぺいするだけでなく、それをゴミのように扱わなければならないのか。

 その上で用を足すというのは・・・。

 何が彼らをそのような行動に向かわせたのか?

 まるで「汚れたもの」、「忌まわしいもの」を忌諱(きき)するかのように「闇に葬ろうとする大地の法則」に、気を失いそうになった。

 犠牲者を弔うためにも、写真に残さなければならないと自分に言い聞かせ、誰もいない瞬間を捉えて、シャッターを切った。

 この写真の右手の方に寛平大橋があり、その大橋の下を鉄道が走っていた。

◆高速道路を眺める「死体の山」の跡で

 6月28日のコラム<もう一つのジェノサイド「チャーズ」の真相を書いた中国人は次々と逮捕される>に書いた杜斌氏が筆者を取材し始めたのは2014年のことだが、筆者の回答の証拠をさらに固めるために「今から長春に行く」と告げたのは2015年夏のことだった。

 そこで彼は長春で、親戚がここで死んだんだとして死者を弔う「紙の紙幣」を燃やしている人に出くわした。寛平大橋を巨大化して建築した高速道路の下側だ。紙を燃やしていると当局が来て「環境を汚染するから」という、もっともらしい理由を付けて「死者を弔うことを禁止した」という。

杜斌著『長春餓死戦 中国国共内戦の最も惨烈な包囲戦』より引用
杜斌著『長春餓死戦 中国国共内戦の最も惨烈な包囲戦』より引用

 これこそが拙著『もうひとつのジェノサイド 長春の惨劇「チャーズ」』のp.151に書いた「死体の山」があった場所である。そして前掲の「野ざらしのトイレ」となっていた場所なのである。

 長春全体は、1994年には開発が進んでいたが、チャーズの跡だけは手をつけることもなく半世紀が過ぎていたが、2005年頃からチャーズ付近の鉄道や高速道路の建設が計画され始め、2013年、習近平政権になってから一気に本格化した。

 見た目にも「チャーズ」の痕跡は抹殺されたが、概念的にも抹殺すべく、6月27日のコラム<許せない習近平の歴史改ざん_もう一つのジェノサイド「チャーズ」>に書いたように、長春市政府の役人だった人が2013年から『囲困長春』を書く構想を練り始めている。

 中国における出版計画は最終的には中共中央の許可がない限り進まないので、中共中央総書記の習近平が「中国には人権問題はない」として書かせたものと判断することができる。

 中共中央のお墨付きの本が出版されると、中国共産党機関紙「人民日報」姉妹版の「環球時報」電子版が「長春包囲の真相」として『囲困長春』を紹介し、これからの若者に永遠にこの歴史を胸に刻むよう願うとして、この「塗り替えられた歴史」を讃えている。

 この高架橋の写真を見たときに、震えが止まらなかった。

 私の原点、私の人生の闘いの全てを抹殺する巨大な力が働いている。

 それを私はペン一本で覆そうとしているのだ。

 それを可能にしてくれるのは、「読者の力」である。

 ペンが強いのは「読者がいるから」だ。

 すべての読者に、「この抹殺されようとしているジェノサイド」を残すために力を与えてほしいと祈るのみだ。

 ペンの力は、ひとえに「読者」にかかっている。

中国問題グローバル研究所所長、筑波大学名誉教授、理学博士

1941年中国生まれ。中国革命戦を経験し1953年に日本帰国。中国問題グローバル研究所所長。筑波大学名誉教授、理学博士。中国社会科学院社会学研究所客員研究員・教授などを歴任。日本文藝家協会会員。著書に『中国「反日の闇」 浮かび上がる日本の闇』(11月1日出版、ビジネス社)、『嗤(わら)う習近平の白い牙』、『習近平が狙う「米一極から多極化へ」 台湾有事を創り出すのはCIAだ!』、『習近平三期目の狙いと新チャイナ・セブン』、『もうひとつのジェノサイド 長春の惨劇「チャーズ」』、『 習近平 父を破滅させた鄧小平への復讐』、『毛沢東 日本軍と共謀した男』、『ネット大国中国 言論をめぐる攻防』など多数。

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