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許せない習近平の歴史改ざん_もう一つのジェノサイド「チャーズ」

遠藤誉中国問題グローバル研究所所長、筑波大学名誉教授、理学博士
1994年9月20日、筆者撮影。世界に一枚しかない、1948年の鉄条網の残骸。

 1947‐48年、長春市は中国共産党軍に食糧包囲され数十万の一般市民が餓死した。二重の包囲網「チャーズ」の柵門を開けなかったのは中共軍だ。それを国民党のせいにした本が中国で出版された。生き証人として許せない。

◆食糧封鎖は2回目の日本人帰国直後から開始された

 1946年夏、終戦後に中国に遺された日本人約百万人の日本帰国があった。これを「百万人遣送」と称する。このとき中国吉林省長春市にいた私の一家は、父が技術者であったために帰国を許されなかった。終戦後長春市はソ連軍の軍政下で現地即製の国民党軍が管轄していたが、1946年4月に共産党軍が攻撃してきて市街戦で共産党軍が勝ち、長春市は一時期共産党の施政下にあった。

 しかし毛沢東の命令により共産党軍が5月に北に消えると、入れ替わりに国民党の正規軍が入城してきて、第一回の日本人遣送が始まったわけだ。

 1947年になると、国民党政府に最低限必要な日本人技術者を残して、他の日本人は強制的に日本に帰国させられた。

 最後の帰国日本人が長春からいなくなった1947年晩秋、長春の街から一斉に電気が消えガスが止まり、水道の水も出なくなった。

 共産党軍による食糧封鎖が始まったのだ。

 長春は都会化された街なので畑がない。食糧はみな近郊から仕入れていた。

 餓死者が出るのに時間はかからなかった。早い冬が訪れると凍死する人も増えた。当時は零下36度まで下がる長春で、暖房なしで生きていくことは不可能だった。

 行き倒れの餓死者や父母を失って街路に這い出した幼児を犬が食べ、その犬を人間が殺して食べる。しまいには、中国人だけが住んでいた(満州国新京市時代に)「シナ街」と呼ばれていた区域では「人肉市場」が立ったという噂がされるようになった。

◆餓死体が敷き詰められた「チャーズ」

 私の家からも何人も餓死者が出て、このまま長春に残れば全員が餓死すると判断された1948年9月20日、私たち一家は長春を脱出することになった。その前日、一番下の弟が餓死した。

 20日朝早く包囲網にある唯一の出口があるというチャーズに向かった。

 全員栄養失調で、皮膚が老人のように皺だらけになり、立ち上がるだけでも苦しかったが、夕方にはチャーズの門に着いた。この門をくぐれば、その外には解放区(中国人民解放軍が管轄している区域)があり、解放区には食糧があると思ったところ、包囲網は二重になっており、国民党軍が管轄する長春市を鉄条網で包囲しているだけでなく、その外側にも鉄条網があり、外側の鉄条網が解放区と接しているのだった。

 「チャーズ」はこの二重の鉄条網の間にある真空地帯だ。

 国民党側のチャーズの門をくぐって国民党軍に指示され、しばらく歩くと、餓死体が地面に転がっていた。餓死体はお腹の部分だけが膨らんで緑色に腐乱し、中には腐乱した場所が割れて、中から腸が流れ出しているのもある。銀バエが、辺りが見えないほどにたかり、私たち難民が通るとパーッと舞い上がった。

 共産党軍側のチャーズの鉄条網の柵近くに辿り着いた時は、暗くなっていた。

 ここに座れと指図したのは、日本語ができる朝鮮人の共産党軍兵士だ。

 私たちは一般に共産党軍を「八路(はちろ)軍」と呼んでいたので、その言い方をすれば「朝鮮人八路」だ。

 脱出の時に持って出たわずかな布団を敷いて地面で寝た。

 生まれて初めての野宿だった。

◆共産党軍側の門は閉ざされたまま

 翌朝目を覚まして驚いた。

 私たちは餓死体の上で野宿させられたのである。

 見れば解放区側(共産党軍側)にある鉄条網で囲まれた包囲網には大きな柵門があり、八路軍の歩哨が立っているが、その門は閉ざされたままだ。

 一縷(いちる)の望みを抱いて国民党側の門をくぐった難民はみな、この中間地帯に閉じ込められてしまったのである。ナチスのガス室送りと同じことだ。

 水は一つの井戸があるだけで、その井戸には難民が群がり、井戸の中には死体が浮かんでいる。

 食べる物などあろうはずもなく、新しい難民がチャーズの中に入ってくると、横になって体力の消耗を防いでいた難民が一斉に「ウオー!」っと唸り声を上げながら立ち上がり、新入りの難民めがけて襲い掛かる。

 このとき日本人はもうほとんど長春にはいなかったので、チャーズの中にいるのは中国人の一般庶民だ。死んだばかりの餓死体をズルズルと引き寄せて輪を作り、背中で中が見えないようにして、いくつもの煙が輪の中心から立ち昇った。

 私もいつかは食べられてしまう。

 その恐怖におののきながら、地面に溜まってる水をすくい上げ、父が持参していたマッチで火を起こして「水」を飲んだ。

 用を足す場所もない。死体の少なそうな場所を見つけて用を足すと、小水で流された土の下から、餓死体の顔が浮かび上がった。見開いた目に土がぎっしり詰まっている。この罪悪感と衝撃から、私は正常な精神を失いかけていた。

 崩れかけた低い石垣に手をかけ体を支えながら立ち上がると、その下では、鉄砲に撃たれて流れている母親の血を母乳と勘違いしてペロペロなめている乳児がいた。

 恐怖に引きつりながら父にしがみついて餓死体の上に敷かれた布団で眠りに入ろうとすると、地を這うような呻き声で目が覚めた。

 父が救われぬ御霊(みたま)の声だと言って立ち上がった時、父のもとを離れたら死ぬという思いから父のあとをついていった。

 すると、そこには死体の山があったのである。

 父がお祈りの言葉を捧げると、死んでいるはずの死体の手先が動いた。

 その瞬間、私をこの世につないでいた最後の糸が切れ、私は廃人のようになっていた。

◆遺族は技術者ではないとして出門を許さなかった八路軍

 4日目の朝、私たちはようやくチャーズの門を出ることが許された。

 父が麻薬中毒患者を治療する薬を発明した特許証を持っていたからだ。

 解放区は技術者を必要としていた。

 このとき父には父の工場で働いていた人やその家族、あるいは終戦後父を頼りにして帰国せず、父が面倒を見ていてあげた家族も同行していたが、その中にご主人は餓死なさって、奥さんと子供だけが残っていた家族もいた。

 すると、いざ出門となった時に、八路軍の歩哨の上司がやってきて、「遺族は技術者ではない!」として、この親子だけを切り離して出門を許可してくれなかったのだ。

 父は八路軍の前に土下座して、「この方たちは私の家族も同然です。どうか、一緒に出させてください・・・!」と懇願した。

 すると八路は土下座して地面につけている父の頭を蹴り上げ、「それなら、お前もチャーズに残れ!」と、あおむけに倒れた父を銃で小突いた。骸骨のように瘦せ衰えた父を母が支え、「お父さんはこの子たちの父親でもあるのですから・・・」と懇願した。

 私は1946年の市街戦で八路軍の流れ弾が腕に当たり、その痕に、家で面倒を見てあげていた開拓団のお姉さんの結核菌がうつって、全身結核性の骨髄炎に罹り、栄養失調が重なって死ぬ寸前の状態だった。すぐ下の弟は栄養失調で脳炎を起こし、母の背中で首を後ろにカクっと倒したまま意識を失っている。死ぬのにそう時間はかからないだろうという状況にあった。

 父は断腸の思いでチャーズをあとにする決意をした。

 父の無念の思いを、私は日本帰国後何十年かした日の父の臨終の言葉で知った。

 仇を討ってやる!

その思いで書いたのが『チャーズ 出口なき大地』(1984年)だが、何度復刻版を出しても絶版になり、このたび『もうひとつのジェノサイド 長春の惨劇「チャーズ」』として復刊する。

◆許せない習近平の歴史改ざん

『もうひとつのジェノサイド 長春の惨劇「チャーズ」』の印刷が始まった後になって、私は偶然、2017年12月に中国共産党が管轄する中国人民出版社から『囲困長春』という本が出版されていたことを知った。

 急いで購入し読んでみたところ、「共産党軍がチャーズの門を閉ざして難民を出さなかったために、一般庶民が大量に餓死した」という事実は完全に隠され、あくまでも「国民党政府が悪いので多くの餓死者を招いた」としか書いてない。

 おまけに共産党軍は「9月11日から、チャーズ内の全ての難民を解放区に自由に出られるようにした」と書いてある。

 あれだけ閉め切って絶対に難民を出さなかった共産党軍側の門。

 父の一行の出門を許した後もなお、「遺族は技術者ではない」として、断腸の思いを父に迫った共産党軍。

 その共産党軍が、9月11日以降は自由に難民を放出したとは何ごとか!

 『囲困長春』には、9月11日前も解放軍は一般庶民に害を与えないよう最大の配慮をしたと書いてある。毛沢東があの時、「長春を死城たらしめよ」と言ったのを知らないのではあるまい。

 執筆者は、元長春市政府の官僚の一人だったので、当然、中国共産党に都合のいいことだけを書いただろう。餓死者は30万人から65万人とも言われているが、1990年代には中国政府側は12万人と言っていたのを、今度は5万人と見積もっている。

 習近平は、この残虐な大量殺人を覆い隠すつもりか。

 これを「ジェノサイド」と言わずして、何と言おう。

 この史実を、ありのままに書いた私を中国は「犯罪者扱い」しただけでなく、別の物語を書くことによって、史実を塗り替えている。

 私はこの事実を残すために生きている。

 事実を書き残すことによって犠牲者の鎮魂をすることが、生き残った者の使命だと自分に言い聞かせて、80を過ぎてもなお、日夜全力を尽くしている。

 習近平よ、「事実求是」を守れ!

 事実を認めるのが、そんなに怖いのか?

 中国共産党は、そんなにもろいものなのか?

 事実を認めたら崩壊するような党ならば、崩壊すればいい

 バイデン政権の戦争ビジネスは、戦争を経験してきた人間として許せないが、歴史を改ざんして犠牲者の魂まで侮辱する党は、なおさら許せない。

 数少ない生存者として、どこまでも追及する所存だ。

中国問題グローバル研究所所長、筑波大学名誉教授、理学博士

1941年中国生まれ。中国革命戦を経験し1953年に日本帰国。中国問題グローバル研究所所長。筑波大学名誉教授、理学博士。中国社会科学院社会学研究所客員研究員・教授などを歴任。日本文藝家協会会員。著書に『中国「反日の闇」 浮かび上がる日本の闇』(11月1日出版、ビジネス社)、『嗤(わら)う習近平の白い牙』、『習近平が狙う「米一極から多極化へ」 台湾有事を創り出すのはCIAだ!』、『習近平三期目の狙いと新チャイナ・セブン』、『もうひとつのジェノサイド 長春の惨劇「チャーズ」』、『 習近平 父を破滅させた鄧小平への復讐』、『毛沢東 日本軍と共謀した男』、『ネット大国中国 言論をめぐる攻防』など多数。

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