【戦国こぼれ話】武田信玄が「自身の死を3年間秘匿し、遺骸を諏訪湖に沈めよ」と遺言したのは事実なのか
安倍晋三氏の国葬が論争となっているが、武田信玄は「自身の死を3年間秘匿せよ」と遺言したといわれている。この話について、詳しく検証することにしよう。
■武田信玄の最期
元亀3年(1572)、武田信玄は大軍を率いて西上する途中、三方ヶ原の戦いで織田信長・徳川家康の連合軍を撃破した。ところが、翌年4月12日、信玄は信濃伊那郡駒場(長野県下伊那郡阿智村)で病没した(亡くなった場所は諸説あり)。
信玄の死後、武田家の家督を継いだのが子の勝頼である。勝頼は家康に対抗すべく、積極的に遠江、三河へ軍事行動を展開した。偉大な父の跡を継いで、武田家の繁栄に尽力した。
ところが、勝頼は信長に追い詰められ、徐々に力を失いつつあった。天正10年(1582)3月、勝頼は天目山の戦いで信長の軍勢に敗れ、武田家は滅亡したのである。
■信玄が没したときの逸話
信玄が没したときの逸話は事欠かない。信玄は「自身の死を3年の間は秘匿し、遺骸を諏訪湖に沈める」こと、家臣の山県昌景に「瀬田(滋賀県大津市)に武田軍の旗を立てよ」と命じたと伝わる。
勝頼には「信勝(勝頼の子)の家督継承まで後見を務め、越後の上杉謙信を頼ること」と遺言した。
映画「影武者」(1980年公開)では、絶命寸前の信玄を俳優の仲代達矢さんが見事に演じていた。最期の遺言の場面は印象深い演技だったので、記憶に残っている人も多いはずだ。以上のうち、「遺骸を諏訪湖に沈める事」というのは史実ではない。
結局、勝頼は信玄の遺言を守り、葬儀を執り行わなかった。天正3年(1575)、勝頼は信玄の三周忌の仏事を催し、その翌年に恵林寺(山梨県甲州市)で信玄の葬儀を挙行したのである。
■まとめ
信玄が自身の死を3年間秘匿せよと言った理由は、信長の反撃を懸念したからだろう。3年間という期間については、勝頼が信長に対抗しうる力を兼ね備えると期間と考えたのだろうか。その辺りの理由は、はっきりしているわけではない。
元亀4年(1573)2月、足利義昭は信玄が生きているという前提で信長に挙兵したが、4月に信玄は死んでしまった。もし、信玄が生きていたら、義昭は信長に勝っていたかもしれない。