あの『ゆきゆきて、神軍』原一男監督が撮ったドキュメンタリー映画『水俣曼荼羅』とは
『ゆきゆきて、神軍』で知られる原一男監督のドキュメンタリー映画『水俣曼荼羅』が11月27日から渋谷シアター・イメージフォーラムを始め全国公開される。3部構成で合計約6時間(372分)という超大作で、それゆえに会場の都合もあって試写会は2回に限定された。そのうちの1回に足を運んだが、30人ほどしか入れない会場で満席、入れない人も出た。
「申し訳ありません。もっと広い会場を使えばよかったのですが、10人くらいしか来てくれない時はどうしようという不安があったもので……」
原監督といえば、ドキュメンタリー映画ではいまや巨匠というイメージもある人だが、ざっくばらんな言葉を発するところがいつまでも変わらない。
映画は途中に休憩を入れて上映されるが、観ながら新たな発見や驚きもあり、ワクワク感をかきたてられる。
原監督の作品の中でも労作というべきこの作品についてインタビューした。
撮影から延べ20年を費やした
――6時間という大作ですが、撮影や編集にかかった期間も長かったのですね。
原 撮影に15年、編集に5年かかっているので、延べ20年です。編集に入った時点でもまだ撮影が続いていたのですが、実質20年かかっています。
1部2部3部と分かれていますが、最初から3部構成にしようと考えていたわけじゃないんです。撮れたものを基本的に時間順に繋いでいくと、ほぼ10時間近くありました。それを最初から最後まで見て行って、少しずつ、ここは要らないとか、ここはこうしようとか、それを繰り返していくんですが、大体1日通して見ると、1時間ぐらいは落とせるんです。
それを繰り返していくうちに、6時間というイメージが編集マンにも私の中にも出てきました。じゃあ上映の途中で休憩も入れないといけないなとなって、2時間ずつ分けてみると、絶妙に内容のテイストが分かれた。狙ってそうしたんじゃなくて、私たちが水俣に通って撮影を進めていく中で、やっぱり問題意識は深まっていくというか変わっていく。それがちょうど1部2部3部という流れになったのです。1部2部3部とほぼ時系列になっていて、ラストは、去年とか一昨年に撮ったシーンです。
――1部2部3部とそれぞれタイトルがついていてテーマがあるわけですね。
原 水俣病の運動の歴史は、権力を持ってる人、政府とか行政が本質的な解決を全く放棄してきた100年間なんです。水俣はなんとなく終わった、過去の出来事という空気がある中で、「いやまだ終わってませんよ」というのは、メッセージとして言わなきゃいけない。ただそれをずっとテーマに掲げて撮ったのかと言われると、そうでもない。映画を作った後に3部に分けたんで、それぞれ何かいいタイトルないかねという、それは後付けです。
撮影に入った時期に最高裁の判決が出たのですが、熊本県がそれを守ろうとしなかったわけですね。行政は行政の判断があるということで最高裁判決を無視する動きになったので、川上敏行さんが怒って、再び熊本県を相手に裁判を起こした。だから第1部は、川上さんが新たに起こした裁判に沿っていくという流れになりました。
その時に、国が基準としてきた「末梢神経説」を否定して川上さんを理論的に支えたのが熊本大学医学部の浴野成生教授たちの「脳の中枢神経説」でした。その研究は、その時点ではまだ完成してない、もう一息ということだったので、その研究の過程を撮らせてくださいとお願いしました。川上さんの裁判と浴野さんの取り組みと、二つを軸にして撮っていこうという方針が決まったわけです。
それで熊本、水俣に通い始めるんです。到着すると、まず浴野さんの研究室に顔を出す、それから水俣の現地に行くというのがだいたいお決まりのコースだったんですね。そうやって通ううちに仲良くなったのが、第2部に出てくる生駒秀夫さんです。前々から生駒さんを狙ってたわけじゃなくて、私たちを受け入れてくれた中で生駒さんが一番、いつも一緒に動くことが多かったから、当然、生駒さんの出番が多くなった。ごく自然にそうなっていったんですね。
取材対象との関係をどう築くか
――第1部のクライマックスは、例えば浴野さんが元患者の脳をスライスするシーンで、取材対象と深い信頼関係を築かないとあのシーンは撮れないですよね。
原 やっぱりドキュメンタリーってそういうものですよね。最初からどうぞ何でも撮ってくださいと言う人はいない。特に映画は、現地の人からすると、初めから歓迎されたわけじゃありません。
地元のテレビ局の人たちとは何度も競合したんですが、地元九州に各局あるし、彼らは手を変え品を変え、企画を立てて番組を作りに来るんですよ。ところが私は、大阪芸術大学で授業を持っているので、水俣に行けるのが夏休みと冬休みとかになる。だから半年ぶりに行くとかいう形態にならざるを得なかったんですね。
地元の人からすれば、テレビの人というのは、次から次へ企画を立てて放送するから、なじみがあるんです。やはり親近感を持ってらっしゃると思いますね。それに対して私たちは、6年7年通っているのに仕上げようという気配がないん で、作品はいつ出来上がるのかと何回も聞かれました。そこはテレビと映画の違いですね。
私たちはやはりテレビよりも深く掘り下げなくてはならないと思うじゃないですか。それで特定の人にカメラを向けて何を聞くかを見つけるのに時間がかかるんです。先方も私たちが深いものを狙ってるだろうという気配は感じますよ。それを感じ取った上でじゃあいいですよと言ってくれるか、私は絶対出たくないと断るか、それは人様々で、今回の映画に出てくれた人たちは結果的に受け入れてくれた方たちです。
浴野さんの場合は、実は、テレビで企画として撮るというのはあまりなかったんです。浴野さんの熊本大における位置というのは、つまり行政側の研究じゃないんですね。映画の中でも、孤立してたって浴野さん自身が言うでしょ。行政側、権力側じゃない研究をしていることで、テレビでは取り上げにくいらしいんですね。
それともうひとつ、浴野さん自身が、自分の研究を例えば国際的な場に発表する時に、わかりやすく紹介する映像があるといいということで、そういう映像を作りたいという目標があったんです。だから私たちの撮影に関してはかなり協力的でした。映画はできましたが、浴野さんの研究発表用の映像はまだ作っていないので、その課題はまだ残っています。
先入観を壊してくれるドキュメンタリーの醍醐味
――それにしても脳を包丁でスライスしていくという映像は、観ていてびっくりします。あれは、行ってみたらすごい映像が撮れちゃったという感じなんですか。
原 とにかく映画なので、動きのある、リアルな映像を撮りたいという、我々の本能なんです。前もって浴野さんに、何か予定あるの、といつも聞くようにしていました。そのなかで阪大病院の教授たちが預かっている脳を浴野さんの研究のために預けるという話を聞いたんで、浴野さんに、ぜひその阪大病院に行くくだりを撮らせてくださいとお願いしたんです。そしたらいいよどうぞということで一緒にくっついていったわけです。浴野さんが「実はここに標本があるんだけど、見てみる?」と言うから、ぜひということで撮ったわけです。
脳を家庭用のポリバケツで運ぶシーンは驚きですよね。脳というのは、どんなふうに保管されてるのか、どんなふうに運ぶのかと思ってたんですが、スーパーのレジ袋か何かに入れて運ぶというのも、我々の先入観を壊してくれる。
脳をスライスするシーンは熊本大で撮ったのですが、あれもびっくりしました。標本を切ると聞いたんでカメラを回していたら、包丁が出てきたんで、「ええ」って。「これ家庭用の包丁ですよね」って言ったんです。
私たちにはやはり先入観があるじゃないですか。脳というのは神聖なイメージがあるし、専用のメスのようなものがあると思っていたら、家庭用の包丁が出てきたんでびっくりしたんです。そしたら浴野さんが「新しく買ってきた新品ですから」と言うのでさらに驚きました。
ドキュメンタリーって撮る側も観る側も、日常生活の中で抱いている思い込みや先入観を壊してくれる。それが醍醐味というか面白さですよね。
観客が「ええっ」という意外性を見せられるというのは、やっぱり映像の力の一つなんで、そこを映画的に面白く見せていこうという意識が当然、働きます。
――第2部の生駒さんの話も、見せる場面が入ってますよね。水俣病の歴史についてもリアルに語ってくれていますし。
原 そうですそうです。
坂本しのぶさんをどう撮るか考えた
――第3部の坂本しのぶさんについても、恋愛の話に敢えてこだわったわけですね。
原 坂本しのぶさんは、水俣病運動の中で、大きな位置を占めてる人ですよね。だから割と早いうちに撮らなくちゃいけないなと思っていたんですが、さてどんなふうに撮れば、しのぶさんの物語が立体的に描けるかといろいろ考えました。
そうやって3年ぐらい過ぎた時に、しのぶさんが音楽コンクールで作詞・応募して入選した。それに歌をつけて、その発表会があると聞いたんで、撮りに行ったわけです。その時、壇上でしのぶさんが自分の音楽を聞いてるときに涙がキラッと光ったように見えたんですよ。それで発表会終わった後にインタビューをお願いをして、「涙が見えたんだけど」と聞いていったら、「目の前に好きな人がおったの」というじゃないですか。その話を聞いて、「ええっ、そうなんだ」と。
坂本さんが恋多き女というのは、地元で有名な話なんですね。それが通ってるうちにわかってきてたんで、私の中でイメージがピタッと一つになったんです。そこで坂本さんが好きになった人たちを改めて訪ねていって、「こういう恋愛をその時したんだよね」という話をするところを撮っていこうじゃないかと思いました。坂本さんに「一緒にセンチメンタルジャーニーをやりませんか」と言ったら、「いいですよ」と言うので、撮影が動き出していったんです。
しのぶさんが好きになった人は、実はもっといるんです。せめてもう5~6人ぐらい撮影したかったんだけど、結果的に3人で終わってしまった。水俣病の患者さんて結構忙しいんですよ。しのぶさんも、地元の小学校から水俣病の授業に来てくれとか、病院にも定期的に行くし、その合間を縫って撮影をお願いしたいと思っても、しのぶさんの体調が悪いと撮影できない。だから3人撮影ができたんですが、あれは1年に1人なんです。映画的には繋がってますけど、1年に1人というペースで撮っているんです。
――試写会で、地元の人たちはどういう感想を持っていましたか。
原 コロナ禍のせいで試写会もなかなかできなくて、地元でできたのは7月でした。カメラを向けた人たちにまず観てもらって報告をしなきゃいけないと、こぢんまりやったのですが、50~60人の人が来てくれました。ジョニー・デップの映画『MINAMATA-ミナマタ-』の試写は水俣市民に広く呼びかけて、有料でやったようですが、2日間で1000人来たと言われます。私たちはあくまで内輪の無料上映という感じでやりました。
ドキュメンタリー映画を撮って、カメラを向けた人たちから「なんでこんなの撮ったの、やだわ」と言われるのが一番困るわけですね。撮られた側が嫌がるような映画にはしたくない。それを心配してたんだけども、観た人たちのアンケートを見ると、「嫌だった」という人は1人もいませんでした。「もっと長くても良かったんじゃないの」という人もいて、ほっとしました。
ジョニー・デップの映画について
――ジョニー・デップの映画を原さんはどうご覧になりましたか。
原 私たち同じ映画屋さんとしてみると、現地で撮影するということはとても大きな意味があるんですね。人間ってやっぱり風土の中で生きてるわけだから、実際に水俣の人がこういう環境の中で生きてるという風景には匂いがあって風がある。その風景の中で呼吸をしながらインタビューする時でも、そういう空気感が絶対に写り込んでいると思うんです。劇映画だって現地で撮影するというのはすごく大きいと、私は思う方なんですよ。
ところが彼らには彼らの事情があって、水俣で撮影ができない、海外で撮影しやすい場所で探すわけでしょ。だから我々が見ると、日本の風景と似てはいるけれど日本じゃないよねと思う。リアリティを感じる部分が少ないのがやっぱりちょっと悔しいと、そんなことを思いました。
でもそれは、どんな映画にだって必ずありますからね。パーフェクトなことを求めてもしょうがない。取りあえず、あの映画はユージン・スミスの伝記映画だと理解すれば、納得できるなと私は思ってるんですね。水俣病って既にもう忘れられていると多くの人が思ってる中で、ジョニー・デップだからこそ周りの人が注目をして、水俣病って実は終わってないんだよという、あの映画もそういうメッセージを発するし、当然私たちもそのメッセージは持っている。そういう意味で、多くの人に水俣病に目を向けるという役割を果たしてくれたという点で映画『MINAMATA-ミナマタ-』を支持するというのが、水俣病に関わってる人たちの基本的な態度ですね。
私たちも同じ水俣病に関するドキュメンタリーを撮った者として、やっぱり知名度がある人の映画というのは目を向けてもらうという役割は果たしてくれるので、それに関しては支持しています。
内容に関してはいろいろありますよ。同じ映画という表現を深めていくという作家の仕事としては、例えば、事実と違うところについては、なんでそういうふうにしなかったのかとか、個別のシーンに関してはいろいろ感じるところはあります。でも、あの映画が果たしている役割、水俣病って終わってないんだよという大きなメッセージを伝えるという、役割はちゃんと果たしていると思います。
細かいところが気になる人は、私たちの『水俣曼荼羅』も観てくれれば、きっと水俣病が持っている問題点を理解できるはずだと思っています。
映画『水俣曼荼羅』公式ホームページは下記
監督:原一男
エグゼクティブ・プロデューサー:浪越宏治
プロデューサー:小林佐智子 原一男 長岡野亜 島野千尋
編集・構成:秦 岳志 整音:小川 武
助成:文化庁文化芸術振興費補助金 (映画創造活動支援事業)独立行政法人日本芸術文化振興会
製作・配給:疾走プロダクション
配給協力:風狂映画舎
2020年/372分/DCP/16:9/日本/ドキュメンタリー
11月27日より渋谷シアター・イメージフォーラム他にてロードショー