「統一教会」の「後方支援」を受けた金大中政権 経済再建と南北統一で連携!
旧「統一教会」(現「世界平和統一家庭連合」)は韓国では「統一グループ」としての経済基盤だけでなく、それなりの政治基盤も確立しているようだ。その一助を担ったのがおそらく金大中(キム・デジュン)元大統領であろう。
今から33年前の1989年10月12日、ベルリンの壁崩壊約1か月前、韓国の新羅ホテルのダイナスティホールで「統一教会」の故文鮮明(ムン・ソンミョン)教祖が自ら「中国パンダ自動車工場都市造成説明会」を開いたが、この場に後に大統領になった金大中・平民党総裁がVIPとして招かれていた。まだ盧泰愚(ノ・テウ)軍事政権の時である。
文鮮明氏は「これは統一教会が構想している中ソ地域4つの工業団地造成事業の始まりに過ぎない。新義州(北朝鮮)―丹東―大連地区、ハルピン―ハバロフスク地区、ウラジオストーク地区など3つの地域に工業団地を新たに建設する計画だ。こうして造成される4つの工業団地網はアジア・太平洋時代の核心拠点となる」と自らの構想をぶち上げていた。
それから9年後、金大中氏が4回目の挑戦で大統領の座を射止め、大統領に就任(1998年2月25日)すると、文鮮明氏は早速、翌日(26日)政界の表舞台に出てきた。与党の「国民会議」と野党第1党の「ハンナラ党」の本部を相次いで訪れ、党3役と会談し、10日後の3月6日にも金鍾泌(キム・ジョンピル)元首相が結成した第2野党の「自由民主連合(自民連)」を訪れ、浦項製鉄の設立者から大統領選に出馬するため政治家に転じた朴泰俊(パク・テジュン)総裁と会談した。
軍事クーデターで政権の座に就いた朴正煕(パク・チョンヒ)政権以来、文鮮明氏が直接与野党本部を訪れたのは異例のことであった。この文鮮明氏の政党訪問には先頃、記者会見を開いて、教団批判をした郭錠煥(クァク・ジョンファン)世界日報社長(当時)や黄善祚(ファン・ソンジョ)世界平和統一家庭連合韓国会長(当時)など「統一教会」幹部5人が同行していた。
与野党訪問の目的は2点あって、一つは「統一教会」が北朝鮮で築いたコネクションを使って金大中大統領の対北「太陽政策」を側面支援することにあった。
「統一教会」は文鮮明氏の平壌訪問(1991年12月)を機に金主席の後継者・金正日(キム・ジョンイル)書記(当時、後に総書記)とも太いパイプを持っていた。金正日書記のお墨付きもあって朴普煕氏は頻繁に北朝鮮に出入りすることができた。実際に南北は文鮮明氏の仲介により離散家族の再会や芸術団の相互訪問を実現させていた。
もう一つの目的は、IMF(国際通貨基金)通貨危機をもろに受け、金泳三(キム・ヨンサム)前政権下で破綻した経済を立て直すことに必死だった金大中政権の経済再生政策への支援にあった。
会談内容は非公開とされていたため文鮮明氏がどのような約束をしたのかは明らかにされてなかったが、文鮮明氏は与野党の指導者らに対して「世界185国に張り巡らされている教会宣教師ら2万5千人を民間外交官として活用する必要がある」と述べていたと伝えられていた。宣教師2万5千人とは相当な数だ。
実際に文鮮明氏は韓国の経済難克服のため世界中の「統一教会」の組織網を総動員し、「救国献金令」を展開し、3月までに1億ドルを集めたとされている。また、影響下にある米紙「ワシントン・タイムズ」など「統一教会」のメディア媒体を使って、米国のバンクが韓国を金融支援するよう広報活動を積極的に展開していた。
「統一教会」は米国を拠点に世界の至る所に進出している。「サタン」(悪魔)扱いしていた共産国家の中国、北朝鮮、そしてロシア(旧ソ連)も例外ではなく、手を伸ばしていた。
実は文鮮明氏は北朝鮮訪問に先駆けて、ソ連(現ロシア)を訪問(1992年4月)し、ゴルバチョフ大統領とも会談していた。
側近の朴普熙、鄭錠煥の両氏が同席したクレムリンでの会合で文氏はゴルバチョフ大統領が進めているペレストロイカへの支持を表明し、「我々は我々の世界的な基盤を最大限に動員し、大統領の開放と改革政策が成功するよう支援する計画がある」と述べたところ、ゴルバチョフ大統領は「統一教教団が所有している多国籍経営基盤と世界的な組織を活用し、ソ連の発展のために直接または間接的に協力してくれるようお願いする」と、躊躇うこともなく「統一教会」の支援、協力を要請していた。
「多国籍経営基盤」の拠点は主に米国、韓国及び日本の3カ国だが、「統一教会」はすでに1980年初めには中南米にも活動エリアを広げていた。
文鮮明氏が1982年に米国で脱税で有罪判決を受け、またフランスでも警察当局の手入れを受けるなど活動が制限されたこともあって中南米に活動の拠点を移し、中でもウルグアイではホテル及び新聞社を買収し、当時ウルグアイの第3の大手銀行であった「クレジットバンク』の経営権も握っていた。
現地の週刊誌「コレオス・デロス・ビエルネス」(1983年3月11日号)によれば、「統一教会」は全国29カ所の支店を持ち、600人の従業員を雇用していた銀行の株をほぼ独占し、経営権を掌握していた。また、最大のホテル「ビクトリア・プラザー・ホテル」を1600万ドルで買収していたと当地の新聞に書かれていた。
「統一教会」のウルグアイ進出には1981年9月にラテン・アメリカ人権協会のジュアン・フェレイラ―事務局長(当時)が米下院外交委員会の中南米問題に関する公聴会に出席し、「統一教会」がウルグアイに投資している事実や当時大統領だったグレゴリオ・アルブァレンズ将軍が文教祖の反共理念に共鳴し、「統一教会」の商業活動を庇護していると証言していた。
ウルグアイだけでなく、「統一教会」は1996年にはブラジルへの進出を企図し、信徒が皆無だったブラジルに1億ドル規模の教団を建設し、世界各国からの信徒らの巡礼地にする構想を抱き、ウルグアイの国境近くの未開拓地に1万6千ヘクタールの農耕地を購入していた。
将来は5万ヘクタールに拡張し、農地でコメなど食糧を生産し、海外に輸出し、「統一教会」の経済基盤を作るのではと囁かれていたが、生産したコメの輸出国の一つに農地面積が少なく、慢性的に食糧を海外に頼らざるを得ない北朝鮮も含まれていると、韓国で報道されたこともあった。
現地のキリスト教や福音主義の宗派からは領域が侵されるとして反対運動が起き、ブラジル政府に対して文鮮明氏の入国を認めないよう申し入れ、また農民の間では「統一教会」が進出すれば、子供らが教会に勧誘されると心配する声が上がっていたのは言うまでもない。「統一教会」側はこうした反対勢力を抑えるため付近の農民らを招き、バーベキューパーティを開くなど、懐柔策に余念がなか ったと、当時現地では伝えられていた。