【どうする家康】最後の徳川四天王、イケメン井伊直政の傷だらけの生涯
徳川幕府の彦根藩の祖として幕末の大老・井伊直弼の先祖だったのが井伊直政。
徳川四天王の中では新参だったが、功績が家康に認められ幕府設立時には一番多くの所領を拝領したが井伊直政でした。しかし、直政の幼少期は武田・織田・今川氏に振り回され、各地を転々として出家までした苦労人でした。
※幼名などがありますが、ここではわかりやすいように記事を通して井伊直政と書きます。
井伊家は、遠江国井伊谷(現在の静岡県浜松市北区引佐町)あたりを治めていた国人領主です。南北朝時代から今川氏と付いたり離れたりをしていましたが、桶狭間の戦い前後は、今川氏に従属していました。
今川義元が討たれると、小さな国人領主の井伊氏は滅亡の危機に直面します。
これまでの戦乱で、井伊氏の男子が直政以外いなくなってしまい、幼い直政が成人するまで女性である井伊直虎※が城主として井伊家を切り盛りする事になりました。
※城主・井伊直虎にはいろいろな説があるようです。
直虎も女性の立場ながら井伊家再興に奮闘しますが、家臣達の謀反や武田信玄の侵攻などでピンチに陥ります。
このタイミングで、重臣の小野道好が突如【今川様の命令とし直政の命頂戴する】と謀反。
直政は、出家する事で命を繋ぎ、ひっそりと暮らす毎日を送るようになります。
こうして、井伊直政は徳川家康に出会うまで武田信玄の侵攻を3度受け伊井谷城を取られていますが、何とか生きながらえていました。
徳川家康に見初められ!?
波乱万丈の幼少期を過ごした井伊直政が14歳になるときに転機が訪れます。
生母が徳川家臣の松下清景と再婚した事で、直政は松下家の養子となり一時的に松下姓を名乗りました。その後、鷹狩の際に家康との初お目見えの際に気に入られ、小姓として仕えることになりました。
小柄な体型で顔だちも少年のようだったそうです。
どうする家康の第15回では直政に襲われるシーンがありましたが、これはドラマの演出でしょう。調べてみると、初お目見えの際に家康がたいそう気に入って小姓にしたと言うのが通説であるようです。
容顔美麗にして、心優にやさしければ、家康卿親しく寵愛し給い
と【太閤記】【徳川実紀】などに記録があるように美男子として知られ、これが徳川家康が気に入った理由ではないかと考えられています。武士の嗜みとして衆道(男色)は当たり前でしたが、家康と秀吉には衆道の記録がありません。
また、家康だけではなく、秀吉から大政所を人質として送られた際に、侍女たちが井伊直政にほれ込んだと言うくらい男女ともにモテたようですね。
イケメンだけど常に体は傷だらけ
徳川家康から【本多忠勝みたいな武将となれ】と言われた井伊直政は、常に先鋒として敵陣に突き進み、武功を挙げていました。初陣の武田氏との【芝原の戦い】を皮切りに、本多忠勝・榊原康政と共に先鋒として活躍をしてきます。
戦で直政が得意としていたのが、敵陣に対して真っ向から切り込む【突き掛かり戦法】。初陣以来16戦負けなしでした。最前線で敵陣に突っ込み陣形を混乱させる戦法のため生傷が絶えなかったそうです。
武田氏滅亡後は、武田家臣・山県正景の赤備えを継承し、新たな【井伊の赤備え】を組織。1584年の小牧・長久手の戦いでは、勇猛果敢に戦う姿が赤鬼のようであったことから【井伊の赤鬼】の異名が全国に知れ渡ることに。
武働きだけではなく外交力あった!?
本能寺の変後の空白地になった甲斐・信濃平定戦では、徳川・北条・上杉の三つ巴戦になります。徳川は主に北条氏との戦いがメインです。当然のように直政は北条との戦いの中、得意の突撃で勇名を馳せました。
この時に直政は武勇だけではなく、徳川の使者として旧武田の遺臣たちを懐柔すると同時に、北条氏との和議も成立させて外交能力の高さも家康に見せつけています。
これには、幼少期の寺生活の経験が生きたと言われています。当時のお寺は、教育機関の役割も持っており、特に直政が過ごした【鳳来寺】は、教育の最高峰だったと言われています。
武勇一辺倒に見えた井伊直政の意外な能力を見た家康は、これ以降は戦後の調停役などを任せるようになりました。
こうした数々の活躍の結果、家康の関東移動の際には箕輪12万石を与えられ家臣団の中でも一番の恩賞を受けています。
関ヶ原の傷がたたり彦根城完成を見れず
勇猛果敢に戦場を駆け巡る武将としては有能だった直政。上司としてはワンマンで、失敗を許さずに部下を切り捨てる一面もあったようです。
見た目と違い、中身は赤鬼ブラック上司とギャップが激しすぎたようです。
天下分け目の関ヶ原の戦いでも、先鋒の福島正則を差し置いて得意の突き掛かり戦法で敵陣をかき回すなどの相変わらずな行動をしています。ところが、退却する島津軍を追撃中に鉄砲で足を討たれてしまいます。
また、これまで外交・調整能力の高さを発揮していたように、戦後は毛利や島津との講和、真田信繁の助命嘆願にも一役買い、ケガを押して戦後処理にあたりました。
家康はこれまでの功績を称え、直政に石田三成の旧領地・滋賀県彦根地域に18万石を与えて佐和山城の主とさせています。ところが、賊将・三成の城に入りたくないと言う理由で別の地に築城を計画。これが彦根城ですが、完成を見ることなく1602年に死去しました。
死因は関が原で受けた銃創とも言われています。
享年42歳でした…
同じく先陣で戦った本多忠勝は軽装で無傷なのに対し、直政は真っ赤な鎧で身を包み重装でも体中傷だらけだと言います。徳川家康も、その傷一つ一つをどの戦で負ったのかを家臣達に涙ながら語っていた逸話が残っています。
直政の死後は次男の直孝が家督を継ぎます。この頃には彦根城も完成。30万石の藩主となりました。
その後、井伊家は徳川幕府の譜代大名として幕府を支え、幕末には大老・井伊直弼を輩出しています。世間的には、日米修好通商条約関連や安政の大獄のからあまり良いイメージのない直弼ですが、地元の彦根市では名君としてわが町の殿様として人気があります。
もう一人?井伊家にまつわる人気者と言えば、彦根市のゆるキャラひこにゃんですが、ひこにゃんは藩主・井伊直孝の命を救った城の前にいた招き猫をモチーフに井伊の赤備えの甲冑を装備させたキャラということです。