【その後の鎌倉殿の13人】死人が出た落雷を吉兆とした中世人の納得の理由
寛喜2年(1230)6月9日に鎌倉幕府の御所に落ちた雷は、柱や破風を壊し、更には、下男を死なせてしまいます。この「一大事」に幕府の主要メンバーが参集。御所を一旦出るか否かを議論するのです。清原季氏は「占いの結果次第」と主張。二階堂行村は「落雷は不吉であるので、少しでも移動した方が良いのでは」との意見。一方、中原師員は「落雷は不吉ではない」と断じたのです。なぜか。1つの理由は、源頼朝が奥州(藤原氏)を攻めた際、本陣に雷が落ちたこと。もう1つの理由は、承久の乱の時、執権・北条義時の邸に落雷があったこと。師員は、この2つの理由でもって、落雷は不吉ではないと主張したのでした。それはなぜかと言うと、奥州藤原氏攻め(1189年)も、承久の乱(1221年)も幕府にとって、勝ち戦で吉事だったからです。中原氏の意見が出た後は、三浦義村と二階堂行盛・町野康俊らが見解を述べます。それは「今回の出来事に先例はない。早く、この事を解決しなければ。御所を出るか否か、やはり占いで決めては」というものでした。幕府のメンバーの見解を見ていると、落雷に対し、様々な観念があったことが分かります。1つは落雷を不吉とする見解。2つ目は吉事(吉兆)とする意見。3つ目は、人知では計り難いので、占いで吉凶を判断してはとの主張。現代においては雷や落雷があっても、前述のようなことまで考える人は、殆どいないでしょう。