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【深読み「鎌倉殿の13人」】一ノ谷の戦い後、冷静に戦略を練っていた源頼朝の凄さ

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
一ノ谷の戦い後、源頼朝は冷静に戦略を練っていた。(提供:アフロ)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第16回では、一ノ谷の戦いで平家が敗北した。その後、頼朝は一気に平家を追撃せず、冷静に戦略を練った。その背景を詳しく掘り下げてみよう。

■長い休戦

 寿永3年(1184)2月7日、源義経らが率いる軍勢は、一ノ谷で平家を破った。これにより平家は一門の有力者を失い、屋島(香川県高松市)へと逃亡した。屋島の戦いが行われたのは、翌元暦2年(1185)2月19日のことである。

 休戦は約1年に及んだが、実はこの間も各地で戦いはあった。その点は、改めて取り上げることにしよう。むろん、源頼朝はこの間も今後の策を練りに練っていた。その点を考えてみよう。

■態勢を整える

 頼朝が平家を追撃しなかったのは、もちろん理由があった。平家は西国方面に威勢が及んでおり、海上での戦いも得意としていた。一方、頼朝方は地理に不案内なうえに、水軍を擁していなかった。それゆえ、戦いの準備を周到に進める必要があった。

 一ノ谷の戦い後、源範頼はいったん鎌倉に戻った。義経は京都に留まり、京都市中の警備などを担当したのである。そして、頼朝は休戦期間を利用して、朝廷との関係を強化しようとした。この頃、朝廷の頼朝を見る目が変わっていたのは事実である。

■朝廷の態度

 寿永2年(1183)、頼朝は東国最強と言われた上総広常を殺害した。すでに、頼朝は「寿永2年の宣旨」により、東国の支配権を認められていたものの、その存在感を強くアピールするに十分だった。

 頼朝は木曽義仲を討つだけでなく、復権を目論む平家を一ノ谷から屋島へと追いやった。頼朝の強力な軍勢を間近に見た朝廷の面々は、日和見的な態度を改め、頼朝と強力なパートナーシップを結ばざるを得なくなった。そして、頼朝は朝廷に強い態度で交渉に臨むことになる。

■頼朝の戦略

 頼朝が優位な状況下において、積極的に勢力圏を拡大するのは、もはや当然のことだった。京都警備は当たり前のことで、朝廷への奉仕は欠かすことができなかった。

 寿永3年(1184)2月、頼朝は土肥実平に備前・備中・備後の守護を、梶原景時に播磨・美作の守護をそれぞれ命じた。こうして、西国方面に逃れた平家を牽制しようとした。

 もっとも重要だったのは、大内惟義を伊賀国へ派遣し、在地勢力の統制を任せたことだった。伊賀・伊勢の両国は、古くから平家の本拠だったので、平家にとって大きなダメージとなった。

 また、比企朝宗を北陸道の越前・若狭に遣わし、鎌倉殿勧農使としての役割を与えた。北陸道はかつては平家の、のちには木曽義仲の勢力圏だった。頼朝は旧勢力を排除した証として、北陸道の経営にもあっていたのだ。

■むすび

 同年2月、頼朝は朝廷に対して、畿内近国の武勇の人々を義経の命令に従うようにしてほしいと奏請した。頼朝は義経に平家追討の権限を付与し、その裏付けを朝廷から得ようとしていた。

 休戦中の頼朝は、占領地の支配と同時に、軍事的統率権の確保に動いていたのだ。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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