【「麒麟がくる」コラム】武田信玄は無念にも「ナレ死」。その生涯と最期までを駆け足でたどる
■「ナレ死」だった武田信玄
石橋凌さんが演じ、強い存在感を示した武田信玄。「さあ、これからどうなるのか!」と期待していたら、あっけなく「ナレ死」(時代劇で武将が亡くなる際、最期の場面が描かれず、ナレーションだけでその死が語られること)ししてしまった。無念に思っている人も多いだろう。ドラマにもあったとおり、足利義昭が頼みにしていたのが信玄だった。
そこで、今回は武田信玄の生涯と最期を駆け足でたどることにしよう。なお、信玄の初名は「晴信」であるが、以下、すべて「信玄」で統一する。
■そもそも武田氏とは
武田氏の源流については、諸説ある。従来説では、清和源氏の流れを汲む源義光が甲斐に土着し、そのまま甲斐武田氏の祖となったとされてきた。しかし、最近の研究では、義光が甲斐守に任官されたこと、甲斐へ入国した事実は、確認できないと指摘されている。
実際に初めて甲斐に入国したのは、義光の嫡男・清光である。ただ、武田氏の系図や由緒書では、義光を始祖としている。武田氏の庶流は各地にも存在し、室町期に守護を務めた安芸武田氏や若狭武田氏はその代表である。
■中興の祖・武田信虎
武田氏を確固たる戦国大名の地位に押し上げたのが、信玄の父・信虎だ。
永正2年(1505)9月、武田家の家督は信縄(のぶつな)の嫡男・信虎が継承した。しかし、これで甲斐国内の争乱は収まらず、信虎と弟の信恵(のぶさと)との抗争が開始された。
永正5年(1508)10月に信恵が戦死し、戦乱は終結したが、国内領主層には反武田の動きがあった。また、国外では北条氏や今川氏が虎視眈々と甲斐の情勢をうかがっていた。
永正7年(1510)、信虎は都留郡の小山田氏を配下に収め、永正12年(1515)に巨摩郡の大井氏を討伐するなど、国内統一を着々と進めた。
永正16年(1519)8月には、石和(山梨県笛吹市)から甲府盆地の中心に移り、城下町甲府(同甲府市)を建設する。おおむね天文元年(1532)頃には、甲斐の統一を果たした。以降、信虎は北条氏、今川氏などと交戦し、近隣諸国への侵攻を積極的に行った。
■武田信玄の登場
天文年間以降、信虎の専横が目立つようになり、重臣らの心が離れていった。天文10年(1541)6月、信虎の嫡男・信玄は父を駿河の今川義元のもとに追放し、武田家の家督を継承した。
信玄は信虎時代の諸政策を引き継ぎ、天文16年(1547)には戦国家法として有名な『甲州法度之次第』を制定した。そして、北条氏と同盟関係を築き、信濃制圧に注力する。
永禄7年(1564)頃、信玄は信濃を支配下に収めた。信濃の領有権をめぐっては、越後の上杉謙信と争っていたが、有利な立場に立った。
以降、信玄は積極的に他国侵攻を押し進め、西上野、飛騨、東美濃を制圧し、永禄11年(1568)には今川氏の領国であった駿河をも支配下に置いた。こうして信玄は、中部、東海方面に広大な領国を形成したのだ。
■信玄の西上と最期
元亀3年(1572)、信玄は大軍を率いて西上の途につき、三方ヶ原の戦いで織田信長・徳川家康の連合軍を撃破した。しかし、翌年4月、信玄は信濃伊那郡駒場(長野県下伊那郡阿智村)で病没したのである(亡くなった場所は諸説あり)。
信玄の死後、家督を継承したのが勝頼である。勝頼は徳川家康に対抗すべく、積極的に遠江、三河へ軍事行動を展開した。しかし、天正10年(1582)3月、織田信長によって滅ぼされてしまった。
信玄が亡くなった際のエピソードには事欠かない。信玄は「自身の死を3年の間は秘匿し、遺骸を諏訪湖に沈める事」、また勝頼には「信勝継承までの後見として務め、越後の上杉謙信を頼る事」と遺言を残した。うち、「遺骸を諏訪湖に沈める事」というのは史実ではない。
元亀4年(1573)2月、足利義昭は信玄が生きている前提で信長に挙兵をしたが、その目論見は見事に崩れた。「ああ、信玄が生きていれば!」と、義昭はきっと思ったに違いない。