【光る君へ】次々と行われた放火。藤原氏を妬む犯人は見つかったのだろうか
今回のNHK大河ドラマ「光る君へ」では、藤原氏を快く思わない人々によると思われる放火が取り上げられていた。結局、放火犯はわからなかった模様だが、その辺りを詳しく考えてみよう。
永祚2年(990)、藤原兼家が亡くなり、子の道隆が跡を継いで関白になった。権力を手にした道隆は、弟の道兼、道綱、道長を次々と昇進させるだけでなく、我が子の伊周らも厚遇した。いかに道隆が権力を掌中に収めたとはいえ、周囲から反発されるのは、当然だったかもしれない。
正暦2年(991)2月10日、後凉(涼)殿で火事があった(『本朝世紀』)。このときは発見が早く、大事には至らなかった。後凉(涼)殿とは、平安京内裏の殿舎の一つで、女御などの住む別殿だった。場所は清涼殿の西隣りにあり、陰明門に相対していた。
当時は、現在のように消防車があるわけではなかったので、いったん火事になると、甚大な被害をもたらすこともあった。
同年2月17日、今度は弘徽殿と飛香舎に放火されたが、こちらもまもなく消火された。こちらは放火だったようである(『日本紀略』)。弘徽殿は平安内裏の後宮の殿舎の一つであり、皇后、中宮、女御などの居所として使用された。場所は清涼殿の北、麗景殿と相対し、その西にあった。
飛香舎は、平安京の内裏五舎(飛香、凝花、襲芳、昭陽、淑景)の一つで、弘徽殿の西に位置していた。天皇が住む清涼殿にもっとも近く、中宮や女御の住まいでもあった。記録類は、これ以上のことは書いていないが、高貴な人の居所が狙われたのだから、極めて不穏である。
同年3月2日、朝廷は一刻も早く放火犯が見つかるよう、十七社に奉弊した。これは、貞観8年(866)の応天門の変にならった措置だった。
応天門の変とは、大納言の伴善男が応天門に火をつけたのは、左大臣の源信であると述べたが、犯人は善男の子の中庸(なかつね)だったという。真相は不明な点が多いものの、善男・中庸は流罪になったのである。
同年3月25日、朝廷は再び放火犯を見つけるため、そして疫病の退散を願って、諸社に奉弊した。しかし、放火犯は見つかることなく、疫病も退散しなかった。放火については、藤原氏を快く思わない者の仕業と考えられるが、残念ながらそれ以上のことは不明である。